「感染者ゼロ」という“後ろめたさ”、そして、パラダイムシフトの足元では!?:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
「感染者ゼロ」という“後ろめたさ”、そして、パラダイムシフトの足元では!?


 

 「自県より岩手の数をまず確認」(5月6日付「朝日新聞」)―。愛知県在住の女性が投句した川柳に不意打ちを食らった。新型コロナウイルスの感染が全国唯一の「ゼロ」県に向けられる外部の視線にほとんど、思いが至っていなかったせいかもしれない。本来なら慶賀されてしかるべきなのに、この方は何か「ゼロ」不信でもお持ちなのだろうか…。こっちの方がだんだん、落ち着かなくなってきた。“感情の宙返り”みたいな、かつて経験のしたことがない不思議な感覚である。ひょっとしたら、ある種の“後ろめたさ”に似た感覚ではないのか―。映画監督の森達也さんの述懐をふと、思い出したのである。

 

 「あのときの重苦しい感覚は、どうにも拭(ぬぐ)いきれない『後ろめたさ』に由来していた。家に閉じこもってテレビが伝える被災地の苛烈で理不尽な状況に吐息をつきながら、時には涙ぐみながら、自分や自分の家族は何の被害も受けていないし、暖かい布団でいつものように眠ることができる現実に混乱した。…でも薄暗いス−パ−やコンビニで買い物しながら、奇妙な解放感があったことも事実だ」(4月24日号『週刊金曜日』)―。森さんは東日本大震災で味わったこの後ろめたさの感覚を「サイバ−ズ・ギルド」(生き残ったゆえの罪責感)とも表現している。ひと言でいえば、ある意味での「非当事者性」がそう思わせたのかもしれない。「ゼロ県」在住者のひとりとしての私の感覚もこれに近いような気がする。

 

 コロナ禍のさ中の4月、東京都内からは当地・花巻への移住を希望した72歳(当時)の男性が不慮の火災に巻き込まれて死亡するという悲劇が起きた(注参照)。さらにその直後には実家での出産を望んだ女性が県内の産婦人科への入院を拒否されるというハプニングも発生した。身近で起きたこの出来事が私の“後ろめたさ”の引き金になっている節もある。追い打ちをかけるように目に飛び込んできた光景に私は心底、狼狽(ろうばい)してしまった。非常事態宣言下の大型連休中、JR盛岡駅の新幹線乗降口にはサ−モグラフィ−(非接触型体温計)が設置され、県職員がチェックに余念がなかった。「感染拡大防止が大事なのはわかるけど」…二の句が継げずに背筋がざわッとした。

 

 「ゼロリスク症候群」という言葉がある。「リスク(危機的状況)はゼロでなければならない」―という強迫観念や呪縛(じゅばく)を指す際によく使われ、”過剰反応”を引き起こす要因のひとつとも指摘される。ひょっとして、「ゼロ県」の岩手、そして我が「イ−ハト−ブはなまき」も無意識のうちにこの症候群の落とし穴にはまり込んでいるのではないのか。医療人類学者の磯野真穂さんは「社会を覆う『正しさ』」(5月8日付「朝日新聞」)と題する論考の中で、こう述べている(要旨)。

 

 「私たちの社会はいつのまにか、『絶対に感染しては、させてはいけない』という感覚に基づいて振る舞うことこそが、道徳になってしまった。感染リスクを限りなくゼロに近づけることが、一人ひとりに課される至上命令になり、他の大きな問題を生み出しています。差別、中傷、バッシングです。自治体が『自粛要請』に従わないパチンコ店を公表すると、抗議や脅迫が殺到する事態になりました。これは現代の『村八分』でしょう。他県ナンバ−の車に対して石を投げたり、いたずらしたり、といったことも出てきています」

 

 「やっかいなのは、感染リスクを下げることだけを目的にすれば、感染リスクの高い人や集団には近づかない、そういう人たちを遠ざける、といったことは、あながち『誤り』ではなく、『正しい』ことになる。『感染リスクをゼロにするべきだ』という正しさは、強い排除の力を生み出します。社会の『周辺』にいる人に対して特に強い力が働く。リスクはゼロか1ではいえないのに、『安全な人や集団』と『危険な人や集団』を分けてしまう。パチンコ店のケ−スは確かに行政主導の『発表』でしたが、個々人が普段から抱く秩序を乱す者を排除したいという感覚が、排除に拍車をかけたように見えます」

 

 「非当事者性」から「当事者性」へ…。つまり、今回のコロナ禍はその災厄が同時多発的にしかも平等に人類に降りかかるという意味ではまさに「自分事」の身の不幸と言えばいえる。「したたかで厄介な」―この未知をウイルスはそのことを私たちに教えているのではないのか。何事も「他人事」では済まされないということを……。人類はいま、「パラダイムシフト」(価値観の大変革)の時代に立たされている。

 

 

 

(写真はサ−モグラフィ−を操作する県職員=5月1日、JR盛岡駅で。インタ−ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《注》〜「悲劇」の顛末(てんまつ)記

 

 「4月11日に花巻市東和町で発生した火災にかかる一部新聞及び週刊誌の報道の掲載内容について、事実と異なることがありますのでお知らせします」―。こんなタイトルの記事が5月7日付の市のHPに掲載された。焼死した男性を巡って、転入届の手続きに不備があったのではないか―とする報道に抗議する内容になっていた。A4版7枚分。「市側に落ち度はなかった」とグダグダと弁明を繰り返す、まるで姑息な“アリバイ”まがいの文面にホトホト疲れ果ててしまった。市民はコロナ禍に翻弄(ほんろう)される日々を送っている。そんなことは尻目に、己(おのれ)の正当性だけを言い募る行政トップ…上田東一市長という人物の人品骨柄の卑しさに「悪寒」(おかん)が走った。

 

 「誰がというのではなく、みんなそろいもそろって“ゼロリスク症候群”にはまってしまったのではないのか。この非常事態の中、責任のなすり合いに憂(う)き身をやつしている暇などあるのか」―というのが私の正直な感想である。いや、お前はそんな「他人事」ではダメだと言ったばかりだったではないか。感染地域からの移住に反対する、もう一人の自分が果たしていなかったのかどうか…。そう、今はそれぞれが頭(こうべ)をたれ、自省すべき時であるはずである。

 

 「死人に口なし」をいいことに、「死者に鞭(むち)打つ」…。今回のHP記事は結局、こんな後味の悪さを残しただけではなかったのか。我がふるさと…理想郷「イーハトーブ」の市長よ、いい加減に目を覚まさんか!?自らが犯した所業(しょぎょう)の残酷さにそろそろ気が付き、己の愚かさに少しはうろたえてみたらどうか!?

 

 

 

《追記−1》〜ジャレド・ダイアモンド(『銃・病原菌・鉄』などの著者)さんからのメッセ−ジ

 

 「このパンデミックは、私たちに『世界レベルのアイデンティティ−』をもたらす可能性があります。私たちには『米国人』『日本人』といった国レベルのアイデンティティ−はあっても、『この世界の一員』というアイデンティティ−はありません。世界中の人々がその存在を認識し、かつ脅威となるような危機が存在しなかったからです。気候変動問題で人がすぐに死ぬことはありませんが、新型コロナは違う。新型コロナが全世界への脅威だと認識し、このパンデミックを通じて世界レベルのアイデンティティ−を作り上げることができれば、この悲劇から望ましい結果を引き出せます」(5月8日付「朝日新聞」)

 

 

《追記―2》〜“自粛ポリス”の正義

 

 営業を続ける店や県外ナンバ−の車などが標的となっており、インタ−ネット上では周囲に自粛を強いる人を指す「自粛警察」という言葉が話題に。専門家は「正義感に基づいていても、嫌がらせ行為は許されない」と戒める。「コドモアツメルナ。オミセシメロ」。千葉県八千代市の駄菓子屋「まぼろし堂」では4月下旬、何者かがこんな貼り紙をした。店は3月下旬から既に休業しており、店主の村山保子さん(74)は「恐怖感がすごかった。今はこんなことではなく、みんなの気持ちを明るくすることを心掛けてほしい」と訴える。

 東京都内では、自粛要請に従って時短営業をしていた居酒屋やライブバ−が「この様な事態でまだ営業しますか?」「自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」などと貼り紙をされたケ−スも。徳島県では県外ナンバーの車が傷を付けられたり、あおり運転をされたりする被害が相次ぎ、自衛のため「県内在住者です」と書かれたステッカ−が売られる事態となった。

 

 東京都立大の宮台真司教授(社会学)は「自粛警察」の心理について、「非常時に周りと同じ行動を取って安心したい人々だ。いじめと同じで自分と違う行動を取る人に嫉妬心を覚え、不安を解消するために攻撃する」と解説。「人にはそれぞれ事情があり、非常時の最適な行動も人によって違うことを理解しなければならない」と呼び掛ける(5月9日付「時事通信」配信)

 

 一方、北上市でも県外ナンバ−の車に乗る県内進出企業の関係者らへの誹謗(ひぼう)・中傷があるとして、高橋敏彦市長は、市のホームぺ−ジ(HP)で「冷静な対応」を市民に要請するメッセ−ジを公表した(同日付「朝日新聞」岩手版)

 

 

《追記―3》〜深刻化する“ナンバ−狩り”

 

 他県ナンバ−狩りは、全国で起きており、車が傷つけられたり、窓ガラスが割られる事態も発生。かつては、東日本大震災時に、福島第一原発事故の影響で、原発周辺地域のいわきナンバー車両が全国に避難した。その際に、「放射能を持ち込むな」などと、同様の被害を受けたことがあった。SNS上では、「自分の『正義』を押し付ける連中が全国で発生中。ひどいですね。こんなことやってる暇があったら、もっとほかに社会貢献できることがあるだろうと思います」といった声が寄せられている(5月10日付ニュ−スサイト「しらべぇ」)

 

 

《追記―4》〜行政による“コロナ差別”

 

 「コロナで急に特別な差別が始まったのではなく、普段の差別や不平等が『見える化』されたにすぎない」。外国人児童の調査・支援を行う小島祥美・愛知淑徳大教授はそう語る。さいたま市は3月、保育園・幼稚園職員にマスクを配ったが、「各種学校」に分類される朝鮮初中級学校幼稚部は、所管でないとして当初は対象外だった。「これまでも各種学校は健康を軽視され、学校での健康診断を定めた法律の対象でもなかった。非常時でも従来の発想の延長線上で差別がある。コロナは国籍を選んで感染するわけではない。こうした不平等は社会全体にリスクとなって返ってくる」(5月10日付「朝日新聞」電子版)

 

 

《追記―5》〜藤原新也さん(写真家・作家)さんからのメッセ−ジ

 

 「東日本大震災原発の被害意識が癒えない中で、再び襲ってきたコロナ禍がさらにそういった被害意識を増長させてしまう恐れもある。海外では医療関係の人を助けようとする動きがあるが、この日本の一部で医療関係者を差別するようなとんでもないことが起こっているのは、積み重なるダメ−ジに心が壊れているという見方もできる」「コロナは人の味覚を奪うが、これからは食べ物の味を本当に味わうことができるかもしれないし、100%の愛情のうち下手したら10%くらいしか使っていなかったのを、コロナ明けからは70%くらい使って他者に接することができるようになるかもしれない。そうなったら人間の勝ちだ。それがニュ−ノ−マルになってほしい」(5月10日付「朝日新聞」電子版)

 

 

《追記―6》〜山本義隆さん(科学史家、元東大全共闘議長)さんからのメッセ−ジ

 

 「かつての戦争でファシズムを経験した日本は、戦後になってそのことの真摯な反省を行わなかったために、ファシズムに対抗する力を養ってこなかったように思われます。日本は『ナチスのやり方に学べばよい』などと平然と口にする人物が長期にわたって財務大臣を務めている、外国の常識からすれば異常な国なのです。コロナ後の世界、変わることは確かですが、どのように変わるのか、どの方向に変わるのか、いや、どのように変えるべきなのか、どの方向に変えるべきなのか、私たち一人一人が問われています(「10・8山崎博昭プロジェクト事務局」ブログより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2020.05.09:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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