「無投票当選」という不作法:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
「無投票当選」という不作法


 「こっちの方がはるかに健全ではないか」―。『黙殺』(畠山理仁著)というすごいタイトルの本を読みながら、そう思った。「落選また落選!供託金没収!それでもくじけずに再挑戦!」…。選挙の魔力に取りつかれた、いわゆる泡沫(ほうまつ)候補たちの「独自の戦い」を追ったドキュメンタリ−である。第15回開高健ノンフィクション賞(2017年)を受賞した。その一方で「選挙」の洗礼を受けない、いわゆる「無投票当選」も後を絶たない。1月告示の県内2市3町の首長選挙のうち、二戸市と洋野町ではすでに無投票当選が確定。21日には花巻市の上田東一市長も無投票で再選(2期目)された。残りの紫波、岩泉両町も同じ結果になりそうな雲行きである。

 

 13戦全敗―。著者が敬意を表してあえて「無頼系独立候補」と呼ぶ中で、一頭地を抜くのがスマイル党総裁のマック赤坂さん(69)である。彼の街頭演説の光景を著者はこんな風に描写している。「半径5メ−トルほどの誰も立ち入らない空間が自然と広がっていた。スクランブル交差点の信号が変わるたびに、男の前には大きな人波があらゆる角度から押し寄せる。しかし、まるで目に見えない結界が張られているかのように、そこには『誰もいない空間』が存在し続けた」―。いや正確にはピンクのコスチュ−ムをまとい、タンバリンを手に踊るマックさんの姿がそこにあった。「黙殺」する側の目に見えなかっただけの話である。

 

 「石原(慎太郎)都政(当時)に見捨てられた東京都民を救うのは、もう人間では無理だと思った。つまり、人智を超えたス−パ−マンか宇宙人しか都政を救える人はいない。ス−パ−マンが出馬するほど東京はどうしようもない窮状にある。『都民よ、目を覚ませ!』という大真面目なメッセ−ジを込めたんだよ。わかるだろ?」(同書)―。2012年12月の東京都知事選挙に立候補したマックさんはス−パ−マンや宇宙人のコスプレ姿で政見放送に臨み、視聴者を驚かせた。しかし、よくよく読んでみれば、至極まっとうな主張である。つまり、「黙殺」されているのが東京都民の側だという逆転の発想なのである。

 

 マックさんらを主役にしたドキュメンタリ−映画「立候補」(2013年)を手がけた映画監督の藤岡利充さんは書評にこう書いた。「日本には政治というステ−ジがある。私たちはこのステ−ジを眺め、投票で関わる。もちろん、投票せず黙殺するのも自由だ。でも長い人生で、政治に大きく魅せられる瞬間があるかもしれない。そんなとき、投票の他に立候補という自由もあると教えてくれるのが、この一冊だ」(1月7日付「岩手日報」)―。立候補者がいないのだから、当然選挙もない。人材難や現職の強み、供託金の多寡(たか)、有権者の無関心…など「無投票当選」を生み出す土壌はさまざまである。しかし、一方で「投票(選挙)の自由」を奪われた政治状況はそのまま、民主主義の破壊を意味する。

 

 岩手県立大学の田島平伸教授(地方自治論)はこう指摘する。「選挙がなければ首長の政策が伝わらず、政策が正しいのか住民の評価も分からない。住民が直接選挙で首長と議員を選ぶ二元代表制が機能不全に陥りかねない」(1月13日付「岩手日報」)―。同じ紙面で、花巻市東和町在住の77歳の男性(紙面では実名)は同市長選に関して、「無投票は市民が安心して任せるとの証し。選挙費用もかからずいいのでは」と話している。個人の意見に疑義を挟むつもりはない。しかし、「選挙」という民主主義の根幹にかかわる問題を、ただ単に「(選挙)費用」の問題に矮小化する姿勢は許されない。ただこの際、問われるべきはその意見を無批判的に紙面化したメディアの側である。結果として、現職候補に与(くみ)しているということに気が付いているのか、いないのか!?…。これって、メディアの自殺行為ではないのか。

 

 一方、今回の花巻市長選に当たっては14人(定数26人、欠員2人)の市議が上田陣営の選挙対策委員に名を連ねた。うち2人は「(選対)副本部長」の肩書を持つ副議長と議会運営委員長(市の監査委員を兼務)である。「中立的な立場にある」という“理由”で、2人は上田市政下で一度も一般質問に立ったことがない。他の自治体では議長自らが登壇(質問)したケ−スも。中立の“欺瞞”が白日の下にさらされたというわけである。議会側だけではない。昨年12月議会で私は「議会事務局長と行政職トップの総合政策部長が配偶者同士にある。ガバナンス上、問題はないか」とただした。これに対し、上田市長は「適材適所」と切って捨てた。「適材」かもしれない。しかし、双方が互いに監視・牽制し合う立場にあるガバナンス(統治システム=二元代表制)の建前からは明らかに「適所」ではない。

 

 ところで、無投票当選が決して「白紙委任」ではないことは言うまでもない。地方自治法は地方自治体におけるリコ−ル(解職請求)ついて、「通常の選挙による当選の場合は選挙後1年間はリコ−ルができない」(第84条)と規定している。その一方で同条の但し書きには「無投票当選の場合は当選翌日からでもリコ−ルが可能である」という定めもある。無投票当選に伴うリスク防止のための最低限の法規制であろう。「1強多弱」という民主主義の危機が叫ばれて久しい。それを根っこで支えているのが地方自治の腐敗ではないのか。二元代表制はとうに崩壊し、メデイアを巻き込んだ”翼賛”体制(地方議会の与党化)が着々と進んでいる。無投票当選が権力の腐敗につながるケ−スはそう珍しいことではない。その責任は当然のことながら、有権者のひとりである私自身も負わなければならない。質問権がことさらに重要な所以(ゆえん)である。

 

 何となく葬送の趣(おもむき)が感じられる、と私は思った。当たり前のことだが、対立候補がいない「無投票当選」にはあの“お祭り騒ぎ”はない。この日21日、「立候補者」はわずか8時間半後には「当選者」に姿を変えていた。ことのほかに寒い冬空の下を凍えるようにして、葬列は進んで行った。マックさんの絶叫が耳の底にこだました。「おれは変えたいんだよ、この国を」―。

 

 

(写真は掲示板に張り出された、たった一人の立候補者のポスタ−=21日午前、花巻市桜町3丁目で)

 

 

 

《追記》〜当ブログ「神出鬼没の賢治と『岩手発』文学の躍動」(1月13日付)と「祝:芥川・直木賞受賞@賢治の“背後霊”!?」(同16日付)に関しての覚え書きー。


 直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』について、花巻市・宮沢賢治記念館の学芸員、牛崎敏哉さんが「内容の史実監修と、主に本文会話の花巻言葉化つまり方言化を担当していた」(1月21日付「岩手日報」)ことを明らかにした。大阪在住の作者にしては、文中の花巻弁が流暢すぎると思っていたが、そのナゾが解けた。でも、こうした手法が厳密な意味での”単著”と言えるのかという疑問も。本書は賢治とその父政次郎との親子関係を描いているが、その生命線は二人や親族との間で交わされる方言による対話。フィクションとはいえ、心臓部ともいえるその部分が第三者の手にゆだねられていたのだとしたら、読む側の読解姿勢も変わらざるを得ない。

 

 私見を述べれば、その文学性を高めるためには逆に、構成にかかる”舞台裏”(種明かし)は極力、封印するのが小説の作法ではないかと思う。今回、その細部が公にされたことで、私自身の想像力も足踏みを余儀なくされたというのが正直な気持ちである、自身が関わった作品が、権威ある文学賞を受賞したという感激は十分に理解するにしても…。最低限、監修者の名前を付記するのがフェアではなかったか。むしろ、私などは翻訳前のダイアローグ(対話)に興味を惹かれてしまったというのが本音である。一方、芥川賞の『おらおらでひとりいぐも』はまさに作者の血肉と化した母語(遠野弁)の発語である。翻訳された方言と母語としての方言…。その力の差を見せつけられた今回の受賞劇だった。

 


 

 

 

 

 

 

 


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