足元に忍び寄る「悪の凡庸」…ガザからイーハトーブまで〜「上田」翼賛体制、ここに極まれり!!??:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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足元に忍び寄る「悪の凡庸」…ガザからイーハトーブまで〜「上田」翼賛体制、ここに極まれり!!??


 

 「悪の凡庸(ぼんよう)」―。イスラエル軍によるパレスチナ自治区「ガザ」への攻撃から早くも半年。終わりの見えない戦禍の中でふと、思い出したのがドイツの哲学者、ハンナ・アーレントの冒頭の言葉である。第2次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺に関わったナチス親衛隊の高官、アイヒマンは「上からの命令に従っただけだ」と語った。これに関連して、アーレントはこう述べた。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」(『エルサレムのアイヒマン』)

 

 かつて、ナチスドイツがユダヤ人に向けた刃(やいば)が今度はそのユダヤ人からパレスチナ人に向けられている。この逆転の構図の中に「悪の凡庸」を見ようとするのは早計であろうか。この根底に横たわっているのは「人間の拒絶」だという気がしてならないのである。なぜ、唐突にこんな例を持ち出したのかと言えば、足元で起きたある出来事がきっかけである。比較すること自体が土台無理、牽強付会(けんきょうふかい)ではないかという向きもあろうが、私にはその根っこの部分で何かが通底し合うのを感じるのである。4月5日付の市HP上にこんな記事が載った。

 

 「『花巻ならでは・独自性・図書館のあるべき姿』や基本理念の議論が不十分のまま、”図書館を愛する”方々の『建設地論争』による意見の分断が、(図書館にあまり関心がない)大部分の市民を置きざりにして整備事業を長引かせています」―。ある市民グループが作成した「花巻図書館50周年記念誌」を紹介する記事の中の一節である。現在、当市では新図書館の建設をめぐって「駅前か病院跡地か」という“立地”論争が続いている。当該記事は記念誌作成の中心人物が書いたもので、図書館についての自説を述べた内容になっている。

 

 駅前立地を強行しようとする市当局に対し、私自身は花巻病院跡地への立地を希望する立場である。そのための「図書館」論議や勉強会を重ね、仲間たちと全国展開の署名運動も続けている。こうした(”図書館を愛する”)活動が「意見の分断」につながるというのであれば、これはもう「言論の自由」(憲法第21条)の侵害と言わざるを得ない。「(病院跡地を希望しているのは)一部の(意見の強い)市民だ」という「上田」(東一市長)流儀の話法とも瓜二つである。もっと言えば、このご本人は駅前立地に軸足を置いているらしいから、語るに落ちるという“オチ”まで付いている。かつては、当局側にきちんと異議申し立てをしていた人物だと思っていたが、いつの間にか逆に籠絡(ろうらく)されていたというお粗末の一席。

 

 しかし、ここで問題にしたいのは、公平性が担保されなければならない市HP上になぜ、当局寄りとも受け止められかねない一個人の言い分が無防備に掲載されたかという、その判断基準である(必読;当ブログ3月14日付「危うい”人道”感覚…ガザへの支援に否定的」)

 

 「悪の凡庸」は現代風に言えば、いわゆる“忖度”(そんたく)である。この言葉が流行した背景について、新明解国語辞典は「特に立場が上の人の意向を推測し、盲目的にそれに沿うように行動することの意で用いられる」と解説している。足元の一見、ささいな「HP」騒動が「上からの命令に従っただけだ」というアイヒマン流の思考にひょいと重なってしまったことに逆にこっちがびっくりした。たまたま、先の大戦の「翼賛(よくさん)」体制に体を張って抵抗した「憲政の神様」―尾崎行雄に関する記事を読んだせいもあるのかもしれない。

 

 「批判的精神は自己を尊重する心、我は奴隷(れい)にあらず、我こそ己(おの)れ自身の主人公なりとの自覚がなければ生(うま)れて来ない。(略)日本人の責任回避の習性は、上からの命令や指令をうのみにした結果、養成せられたのではあるまいか」(『民主政治読本』、1947年)―

 

 「醜態の見本市のごとき日本政治に鬱々(うつうつ)としていた」ー高橋純子記者は尾崎のこの言葉を引き合いに出しながら、「(派)閥族政治の奴隷になるのか」(4月6日付「朝日新聞」多事奏論)と喝破していた。足元のご当地・イーハトーブでも過日、総合花巻病院への財政支援という重要案件について、本来なら議員を通じて市民に情報提供がなされるべき「議員説明会」がその理由もあきらかにされないまま、「非公開」になるという暴挙があった。議員と当局との間でどんな議論が交わされたのか…取材陣も締め出されるという前代未聞の出来事の前に市民の「知る権利」は一方的に奪われてしまった。(議会側もその軍門に下ったという意味では)「上田」翼賛体制は止まるところを知らない勢いである。息絶えるどころか「悪の凡庸」はまるで、“亡霊”のように世界中のいたるところでうごめいているようである。

 

 

<註>〜「まきまき花巻」

 

 図書館に関する上記の引用記事は”市民ライタ―”による「まきまき花巻」というWEB上のサイトに掲載されている。当該記事がHPにリンクされた直後、「長引かせています」が「長引かせてはいないでしょうか」などと表現を和らげるように変更された。まったく、往生際が悪い。なお、9日付で差し替えられた記事を読んでみたらまるで、広告代理店みたいな内容だった。”公器”であるはずの市のHPが利害の伴う広告塔に成り果てるとは!?

 

 

 

 

(写真はプロモーションサイト「まきまき花巻」に掲載された図書館記念誌の紹介記事。=花巻市のHPより)

 

 

 

《追記ー1》〜「鬱々(うつうつ)」気分が真っ只中での朗報!?

 

 

 北上市出身で、米国の名門バークリー音楽大3年の長屋凜さん(21)は、国際的な作曲コンクール「ジョン・レノン・ソングライティングコンテスト」のワールド部門でグランプリに輝いた。アイヌの言語や文化を現代音楽にアレンジした楽曲で、曲名は「Forgotten People(忘れられた人達)」。最高賞を励みに、夢のグラミー賞を追い求める。中学時代に2年間コーラス隊に在籍した以外に音楽経験はなかったが、独学で英語や音楽を勉強して同大に進学。主に楽曲製作を学んでおり、2023年12月、プロアマ問わず2万曲以上のエントリーがあるという同コンテストに初めて応募した(4月9日付「岩手日日新聞」電子版)

 

 

 

《追記―2》〜「一部の意見の強い市民」(上田市長)VS.「サイレント・マジョリティ」(岸元首相)

 

 

 60年安保闘争の時、当時の岸信介首相は安保改定に反対するデモ隊をめぐって、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園はいつもの通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と述べ、新安保条約を強行採決した。いわゆる、「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)発言である。上田市長にとってのそれはさしずめ「高校生を含む若者世代派」ということになろうか。

 

 なお、岸元首相の外孫に当たる安倍晋三元首相は2017年7月、東京都議選の応援演説の際、ヤジを飛ばした群衆に向かい「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と応じた。「一部の意見の強い市民」=「こんな人たち」(つまりは、意に沿わない人間集団)は…権力を握る人間にとっては、いつの時代でも”排除”の対象である。

 

 

 

 
 


2024.04.08:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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