大手廃棄物処理業者「サンクリーン」が身売り…“兼業”疑惑の中で!?そして、今日は原爆忌:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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大手廃棄物処理業者「サンクリーン」が身売り…“兼業”疑惑の中で!?そして、今日は原爆忌
2022.08.06:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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花巻市内の大手廃棄物処理業者「サンクリ−ン」の経営陣が今年6月15日付で一新されていたことが会社謄本(履歴事項全部証明書)の記載でわかった。同社は代表取締役や監査役の“兼業”疑惑で市民の間に不信の声が高まっていた。今後の経営は同日付で、同市内の同業他社である「理水興業」(今野秀實社長)に受け継がれた。
一般廃棄物や産業廃棄物の収集処理を手がけるサンクリ−ンは昭和50年に設立。2014年(平成26年)、上田東一市長が就任するまでは同氏が代表取締役(社長)の地位にあったが、地方自治法第142条(兼業禁止)の規定に基づき、配偶者の妻美智子さんにその座を譲った。
この件について、私は市議時代にこうただした。「(配偶者の代表取締役)自体は法に抵触するものではないという前提に立ったうえで、コンプライアンス上の、いわゆる“社会的な規範”について、どう認識しているか」(平成28年6月定例会)―。当時、全国の自治体では首長の行動規範などを定める条例の制定が相次ぎ、たとえば、富山県氷見市では「氷見市長等の行動規範及び政治倫理に関する条例」(平成28年6月制定)の中で、「地方自治法第142条の規定の趣旨を尊重し、市長等の配偶者若しくは1親等の親族又は法人に対し、市等との請負契約等を自粛するよう働きかけ、市民に疑惑の念を生じさせないよう努めること」(第7条)と規定していた。
私の質問に対し、上田市長は「後任の人材探しが難航した。妻には早く代わりを見つけたい。私と妻の間には“チャイニ−ズウオ−ル”(万里の長城)を張りめぐらし、情報交換は一切していない」と「利益相反」原則の重要性を強調する一方で、「法的に問題ないが、議会がダメだというなら、その旨を条例で制定してほしい」と“開き直り”のような答弁を繰り返した。
一方でその後、同社をめぐって監査役兼任“疑惑”が浮上した。東北有数の温泉地を抱える花巻市の観光業は市財政を底支えする基幹産業。花巻温泉郷と花巻南温泉郷には合わせて34のホテルや旅館が林立し、誘客の原動力になってきた。一方、各施設から排出される廃棄物の量も膨大で、その事務処理を担うのが「花巻温泉郷廃棄物処理組合」(安藤昭組合長)だったが、実際の処理業務はサンクリ−ンに一括委託されて行われていた。令和2年度はコロナ禍の影響で一時減少したものの、年間の排出量は1,000トン以上にも及ぶこともあった。
サンクリ−ンへの委託料の2分の1が市側からの補助金で、ここ数年間は年間1,100万円から1,600万円の幅で交付され、残りの相当分が組合負担となっている。私が昨年秋、行政文書の開示請求で入手した組合側の「定時総会」資料によると、コロナ禍前年の令和元年度の市補助金は1,600万円で、これに組合負担分(約2、300万円)を加えた総額39,068,316円が委託料として、サンクリ−ンに支払われていたことが分かった。さらに、令和3年度分の市補助金として1,600万円が予算計上され、組合負担分もほぼ同額となっていた。
ところがその一方で、花巻温泉株式会社の社長でもある安藤組合長が上田市長が就任した直後の平成26年6月29日付で、サンクリ−ンの監査役(会計担当)の重職についていることが明らかになった。「受託」と「委託」の混同―。この件については昨年9月定例市議会の決算特別委員会でも取り上げられたが、担当課長は「地方自治法第142条については、公共団体の長がそういうものに従事する規定はあるけれども、それ以外については先ほど委員おっしゃったとおり、法的な違反をするものではないというところがございますので、市といたしましても、そのような形で認識しているというふうに捉えております」という支離滅裂な答弁に終始していた。
今回の辞任について、前社長の上田美智子さんは自らのフェイスブックに「安定した経営を望んでのことです」と書き込んでいる。また、ホテル業者のひとりはこう話している。「遅きに失した感がある。慣例として行われてきたのだろうが、廃棄物処理組合の組合長に就任した時点で委託先の監査役の職は辞すべきではなかったのか。このままでは世間の納得は得られないと思っていた」
(写真は人事を一新したサンクリ−ンの会社謄本のコピ−)
《追記》〜「焼き場に立つ少年」と被曝77年
毎年8月を迎えると、忘れずに向き合う一枚の写真がある。米国人の報道写真家、ジョ−・オダネルが長崎の爆心地で撮影した写真である。オダネルはその少年について、こう書き記している(=要旨、コメント欄に写真)
※
「10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです」
「男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶ける、ジュ−という音がしました。それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました」