もうひとつの「難民」物語…ボルガ大演芸団とスタルヒン:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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105年前、さかのぼれば現プ−チン政権の生みの親でもある「ロシア革命」(1917年)で、祖国を追われた難民の群れがあった。その数ざっと200万人。日本に亡命した“白系ロシア人”のひとりが不世出の大投手と呼ばれたヴィクトル・スタルヒン(1916―57年)である。昭和9年、結成されたばかりの大日本野球倶楽部 (巨人軍の前身)に入団。303勝176敗の生涯記録のうち、83の完封はいまだに破られていない。そのスタルヒンの墓が秋田県横手市雄物川の崇念寺(高橋大我住職)にある。今回のテ−マはスタルヒンその人ではなく、高橋家をめぐる数奇な運命についてである。
革命軍と白軍(皇帝派)の激しい衝突が続く中、特務機関で通訳として働く一人の日本人がいた。大我さんの父親、義雄である。軍務を離れた義雄は「哈爾浜(ハルビン)奉仕同盟会」を立ち上げ、その目的に「露国飢民救済援助の件」を掲げた。僧職を弟にゆだね、画家を目指して出奔(しゅっぽん)した人生の転機だった。難民救済に心を砕く義雄は大正8年、家族と生き別れとなって放浪していた「アントニ−ナ」(愛称、ト−シャ)と結婚した。バレリ−ナやバイオリニスト、歌手、曲芸師…。大正12年に日本へ戻る時、義雄は20人以上の亡命者と一緒だった。「ボルガ大演芸団」を組織した義雄は帰国後、九州や関西の巡業を続けたが、昭和43年に病没した。
30年以上も前、私は“青い目”の住職、大我さん(現在88歳)にお会いしたことがある。「なぜ、ここにスタルヒンが眠っているのか」という素朴な疑問からだった。両親の義雄・ト−シャさんの間には6人の子どもがいた。大我さんは四男で、長女の久仁恵さん(ロシア名、タ−ニャ)がスタルヒンの再婚の相手だった。「至誠院釈完闘不退位」という戒名を刻んだ墓石の上には白球をかたどった石が置かれていた。大我さんの言葉がまだ、脳裏にこびりついている。
「母が寺の近くの雄物川のほとりにたたずむようになったのは、父(義雄)を亡くしてからです。母の生家のすぐそばにはボルガ河が流れていたそうです。ロシア語を決して口にしなかった母でしたが、いつしか哀調をおびたロシア民謡を、祖国の言葉で口ずさむようになっていました。息を引き取った時、枕もとには小さなマリア像が置かれていました」―。母親のト−シャさんが旅立ったのは昭和54年だが、姉のターニャさんは父親が没した3年後に自らの命を絶っている。
ト−シャ、タ−ニャ…そして、生涯、無国籍だったスタルヒンは引退後の昭和32年、不慮の交通事故で死んだ。40歳の若さだった。そしていま、ロシア人の血を引く日本人住職が歴史に翻弄(ほんろう)された人たちの弔いを続けている。ウクライナ難民が300万人を超えたと伝えられる。ロシア革命の時、着のみ着のままで祖国を後にした当時のウクライナ人はいままた、新しい祖国を追われつつある。1世紀以上も前のもうひとつの「難民」物語がその光景に重なる。
(写真はスタルヒンとタ−ニャが眠る墓。台座には「栄光の名投手」と刻まれている=インタ−ネット上に公開の写真から)