コロナ禍の文学…「最後の自粛」という想像力:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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コロナ禍の文学…「最後の自粛」という想像力
2020.05.28:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「これから、新しい時代が始まります。世界は、そこで生きていく価値のあるものに変わります。今しがた抑圧者の多くを片付けました…」―。2021年7月23日、「新型コロナウイルスによる災禍からの復興」をテ−マにした東京五輪は主催者側のこんなあいさつで幕を開けた。国立競技場のステ−ジには“自粛”された各国首脳の無残な死が転がっていた。コロナ禍を文学はどう表現するのか…東日本大震災の際の『想像ラジオ』(いとうせいこう著)がそうであったように、今回のパンデミックをリアルタイムで描写する手法は当面、文学という「想像力」に頼るしかない。冒頭のセリフは「コロナ禍の時代の表現」を特集した総合文芸誌「新潮」(6月号)に収録された作家、鴻池留衣さん(33)の長編『最後の自粛』の一節である。
「地球温暖化研究会」を名乗る男子校の愛好会が物語の主人公である。共学化を迫る外部団体への反発から、運動が先鋭化していく。そして、高校生たちは現下のコロナ禍に遭遇する。話の筋道にはいろんな仕掛けが施されているが、23日付当ブログで触れた「正義」に対する反逆の物語として、読み解くこともできる。つまり、「自粛」を要請する側を他動詞的に“自粛する”という意味合いにおいて…。同調圧力が働くいまこそ、「表現の自由」の出番である。たとえば、文中にはこんな過激な会話が並ぶ。
「だって、まるでコロナウイルスが登場するまでは、世界には死など存在しなかったような物言いじゃないですか。今まであいつらは命がけで生きてこなかったのでしょう。人間が常に死と隣り合わせであることを知らなかったのでしょう。あいつらにしてみれば、俺たちの人権などどうでもいいのでしょう。ならばこちらも、あちらの人権などどうでもいい。そうだ、社会実験だ。彼ら抑圧者にはこれから、生きるのを自粛してもらいます。人間には様々な死に方があるのだと、教えてあげます。あいつらがそれを、心底理解した暁には、今更パニクるのも馬鹿らしくなり、俺たちの自由を侵害することもなくなるのではないでしょうか」―
私の脳裏には既視感のある自粛の光景として、31年前の昭和天皇の崩御(ほうぎょ)に伴う“自粛ム−ド”と東日本大震災後のそれが刻まれている。前者は「喪(も)に服す」というある種、伝統的な身の処し方として受け入れられ、後者は犠牲者の死を悼(いた)み、被災者に寄り添うという形での慎み深さを促した。ところが、今回は根本が違う。人類全体が否応なしに「死」に直面させられているという「当事者性」ゆえかもしれない。「命か経済か」―という二者択一が許されないというジレンマ、つまり“感染死”も“経済死”も同時に防がなければならないという命題を突きつけられているということなのだろう。
文中にこんなくだりがある。「その後上級抑圧者を自粛し始めた。そこには政治家、知識人、裁判官、中央省庁の官僚などが含まれており、初期のリストアップにおける彼らの共通点が何だったかと言えば、他人に対して無責任に自粛を求めたことである」―。そして、「最後の自粛」は1年間延期されていた東京五輪のその日に実行に移される。この日を待ちわびていた一人がつぶやく。「新型コロナウイルスのパンデミックの影で、何か別の非常に重大な危機に人類は晒(さら)されているのではないかという指摘をしてくれる人もいたのだ」ーと…
安倍晋三首相はワクチンなどの開発を急ぐ一方で、まるで来年の五輪開催にスケジュ−ルを合わせるかのように「新しい生活様式」を提示した。経済・社会活動の再開(緊急事態宣言の解除)と引き換えに、装いを新たにした“正義”(自粛の強制)が再登場したと言ってもいい。京都大学人文科学研所の藤原辰史・准教授(農業・環境史)はこう述べている。
「とくにスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)がそうであったように、危機脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生(そうせい)するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する『勝利』はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから。…危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか」(Web岩波新書「B面の岩波新書」4月2日付「パンデミックを生きる指針」)
“正義の大合唱”が抱え持つ、もうひとつの負の側面を肝に銘じておきたい。えてして、その落とし穴にはまりこむのは(かつて、私がそう命名した)「善意の人」族(ミュータント=突然変異体)と呼ばれる集団であることも歴史は教えている。そういえば、日中戦争時に国家総動員法成立の後押しをしたのが、革新を標榜する社会大衆党だったことを、ふと思い出した。コロナパンデミックは装いを新たにした”国家総動員法”を産み落としつつあるのかもしれない。
(写真は外出自粛で人影が消えた市中に出現したシカの群れ。マスクをした人間がその間を申し訳なさそうに通り過ぎていく=奈良市の奈良公園近辺で。インタ−ネットに公開の写真から)
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