クック上陸250年と感染症:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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クック上陸250年と感染症
2020.05.06:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「隔離(ステイホーム)の時間を利用して、よ〜く考えよう」(4月29日付並びに5月1日と同3日付当ブログ参照)―。パオロ・ジョルダ−ノからけしかけられたせいでもあるまいが、コロナ禍以降、思考があっちに行ったり、こっちに行ったりと千々に乱れている。そのパオロは「僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ」と書いていたが、さっそく一枚の画像が目の前に現れた。登場したのは通称「キャプテン・クック」と呼ばれた英国の海軍士官で海洋研究家のジェ−ムズ・クック(1728―1779年)である。
「クック上陸250年/続く論争」(4月30日付「朝日新聞」)という特集記事が目にとまった。「文化の消滅 始まった」、「科学と民主主義 得た」などの小見出しがついていた。クックは250年前の1770年4月29日、オ−ストラリアに上陸した。記事にこんな一節があった。「先住民たち(アボリジニ−)たちはその後、入植者たちとの衝突や、持ち込まれた病気に苦しんだ。入植前に推計で豪州に75万人いた人口が、1920年代に7万人に激減した。当局は先住民を居留地に入れ、白人社会と隔離した」―。コロナ禍の渦中にいなかったら、ひょっとして見過ごしていたかもしれない。
「文明とは感染症の『ゆりかご』であった」(『感染症と文明』)―と感染症学者の山本太郎さんは指摘している(4月27日付当ブログ参照)。この言葉通り、クックらヨ−ロッパ人が旧大陸からもたらした伝染病(ウイルス)は、天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹(はしか)など多種多様に及んだ。旧大陸から遠く隔絶され、免疫力を持たなかった先住民たちにウイルスは容赦なく襲いかかった。700を超える部族たちが250種類の言語を操っていた伝統文化は消滅の瀬戸際に立たされた。
「コロンブス交換」という言葉がある。1492年のコロンブスによる「新大陸の発見」に伴って、動植物や食物、果ては奴隷を含む東半球と西半球との間の広範な交換を表現する言葉だが、この行為は数々の感染症も新大陸にもたらすことになった。コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、猩紅熱(しょうこうねつ)、睡眠病(嗜眠性脳炎)、天然痘、結核、腸チフス、黄熱……。たとえば、南米ペル−を中心にして栄えた「インカ帝国」は天然痘の蔓延によって人口の約60〜90%を失い、滅亡の大きな引き金になったとされる。それにしても、レントゲンという透視画像ほどふだんは記憶の彼方に隠されてきた歴史を浮き彫りにしてくれる存在はないようである。オ−ストラリアのあちこちに建つ英雄「クック」像を眺めているうちにネガの背後からもう一つの光景が浮かび上がってきた。
コロナ禍に見舞われているオ−ストラリアでは現在、家族以外で3人以上が集まることが禁止され、違反すれば罰金や禁固刑が科せられるという警察国家並みの「隔離政策」が断行されている。「隔離」と聞いて、さび付いていたアンテナがピッと反応した。この国ではかつて、アボリジニ−などの先住民の子どもを家族から引き離して強制収容所や孤児院に収容し、優性思想のもとに「同化政策」を強制した負の歴史を背負っている。この政策は1869年から約100年間続けられ、この間、幼い子どもたちは精神的・肉体的な虐待にさらされた。「盗まれた世代」と呼ばれたこの過去の過ちについて、政府が正式に謝罪したのは2008年になってからである。
今次のコロナ禍はよく、ギリシャ神話の「パンドラの箱」にたとえられる。何が飛び出してくるか、まったく予想もつかない。しかし、人類に禍(わざわい)をもたらすとされるその箱には「エルペス」という言葉も残されていたという。「期待」とか「希望」という意味である。この際、一切合財をチャラにして、その絶望の中からエルペスのひとかけらを求めよ―。私流にいえば、「コロナ神」はそんなことを人類に求めているのかもしれない。喫緊の課題はPCR検査の拡大と地球儀を俯瞰(ふかん)した透視検査(レントゲン撮影)の実施である。さて今度はどんな画像が姿を見せるのか、いまから楽しみである。
(写真はクックの功績をたたえる銅像。土台には「1770年にこの領土を発見した」と刻まれている=シドニ−中心部のハイドパ−クで。インタ−ネット上に公開の写真から)
《追記》〜コロナウイルスとまんどろだお月様
今日7日は満月。漆黒の中天に“まんどろな”(まんまるい)お月さんが浮いている。ふと、津軽の方言詩人、高木恭三(故人)の詩が口をつく。コロナ神と対話しているような不思議な気持ちになった(コメント欄の写真はこの日の満月=7日午後8時すぎ、花巻市桜町の自宅から)
嬶(かが)ごと殴(ぶたら)いで戸外(おもで)サ出はれば
まんどろだお月様だ
吹雪(ふ)いだ後(あど)の吹溜(やぶ)こいで
何処(ど)サ行(え)ぐどもなぐ俺(わ)ぁ出はて来たンだ
どしてあたらネ憎(にぐ)くなるのだベナ
憎(にぐ)がるのぁ愛(めご)がるより本気ネなるもんだネ
そして今まだ愛(めご)いど思ふのぁ どしたごどだバ
ああ みんな吹雪(ふぎ)と同(おんな)しせぇ
過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ
(『まるめろ』所収「冬の月」)