「通りすがりのパフォ−マンスに自己満足するだけではないのか」―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設)現場の最前線…米軍キャンプ・シュワブのゲ−ト前を私は行ったり来たりしていた。ほぼ毎日、土砂を満載した大型ダンプカ−やコンクリ−トミキサ−車数百台がこのゲ−トから大浦湾の埋め立て現場へと向かう。朝と昼と午後の1日3回、進入を阻止しようと数十人が座り込む。島のオバァやオジィが大半で、年金生活者とおぼしき移住者や現場視察の教員や地方議員らの姿も。私を逡巡(しゅんじゅん)させていたのはある種の“後ろめたさ”だったのかもしれない。「こっちにおいで」とオバァが手招きしている。柔道の“空気投げ”でも食らったように、私は道路を横断していた。
本土では最近、ほとんど感じることのない不思議な“小宇宙”がそこには広がっていた。沖縄県警の機動隊員と警備会社の警備員が前後を固め、基地内では沖縄防衛局の職員が記録用のビデオカメラを回している。一見、物々しい“敵対”の光景なのだが、この空間に身を置いてみると感覚がまるで違うのである。「ツ−ショットをお願いね」とサングラスをかけた機動隊長と腕を組むウチナンチュ(沖縄)の中年女性。「それはちょっと…」と言いつつもちゃっかりと写真に納まっている。「あなたはどこから?」と問われ、「岩手から」と応答するとすかさず「岩手からも来てるぞ〜」とシュプレヒコ−ルが響き渡った。ジョギングをする米兵と日本製の小型軽トラックが目の前をすれ違った。「腹が出っ張っていたら、兵隊は務まらないさ」とクバの編み笠をかぶったオバァ。「火」と大書された軽トラには「EXPLOSIVES」(爆発物)というステッカ−が張られていた。
ゲ−ト前で「カチャ−シ−」が始まった。三線(さんしん)に合わせて踊る沖縄伝統の手踊りである。機動隊員はもちろんのこと、地元出身者が多いといわれる警備員にとってもこの伝統舞踊は体に染みついているはずである。これを踊れなければ、ウチナンチュの恥とさえ言われる。「この人たちもきっと、心の中で一緒に踊っていたのではないのか」と私にはそう思えてくるのだった。「そろそろ、余興の時間は終わりにしてよろしいでしょうか」と機動隊長はハンドマイクを握った。「すみやかに歩道に出てください。従わない場合は道路交通法違反の容疑で強制排除に入ります」―
カチャ−シ−が終わるタイミングに合わせたかのような“最後通告”に私は妙な感慨を覚えてしまった。「敵対の中のほんわかした連帯。そして、こうした連帯の輪に対し、総がかりで敵対しているのは他ならぬ私たちヤマトンチュ(本土)ではないのか。無知・無関心という装いをこらしながら…」―と。「暇とお金が少したまったら、また来てね。とにかく、諦めないで続けることが大切なのよ」とさっきのオバァが手を差し伸べてくれた。
不意に著名な思想家で詩人の谷川雁(1923―1995年)の文章の一節が脳裏をかけめぐった。谷川は「原点が存在する」というエッセイにこう書いている。「『段々降りてゆく』よりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。…一刻の休みもなく私達は新しい子供達を創らねばならない。まだ暁闇(ぎょうあん)以前に横たわっている、あの嬰児(えいじ)のために。そのために私達は『力足を踏んで段々降りて』ゆこう。平和のために戦い、平和へののぞみを歌おう。汝、人類の生存を望むか」(1954年5月)
日本最大の産炭地だった「筑豊」(福岡県)に思想の砦(とりで)としての“サ−クル村”を設立し、切り捨てられていく炭鉱労労働者の人権回復や「60年安保」闘争の戦列に加わった谷川の「原点」がこの文章に凝縮されている。谷川の同志だった記録作家、故上野英信さん(享年64歳)は1987年、病床のメモ用紙にこう書きつけた。
筑豊よ
日本を根底から
変革する、エネルギ−の
ルツボであれ
火床であれ
沖縄から南米に移民した一族の苦難の転変を描いた『眉屋私記』は上野の代表作のひとつである。沖縄にも心を寄せ続けていたのである。私はいま、敬愛するこの作家の“遺言状”に一部の変更を加える無礼を許していただきたいと思う。「筑豊」を「「沖縄」へと…。谷川のいう“原点”はいま、南のこの地にこそ存在していると思うからである。
(写真は機動隊と警備員の壁にはさまれながら、カチャ−シ−を踊るオバァやオジィたち。奇妙な連帯感が漂っていた=1月9日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲ−ト前で)
公道上を爆発物を積んだ米軍車両が堂々と行き交う。こんな光景は沖縄では珍しくない=1月9日午後、米軍キャンプ・シュワブ前の県道で
機動隊による強制排除(”ごぼう抜き”)が日常的に行われているのは、全国広しと言えどもここだけ。その意味では日本の縮図ー原点でもある=米軍キャンプ・シュワブのゲート前で。インターネット上に公開の写真から
「通りすがりのパフォ−マンスに自己満足するだけではないのか」―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設)現場の最前線…米軍キャンプ・シュワブのゲ−ト前を私は行ったり来たりしていた。ほぼ毎日、土砂を満載した大型ダンプカ−やコンクリ−トミキサ−車数百台がこのゲ−トから大浦湾の埋め立て現場へと向かう。朝と昼と午後の1日3回、進入を阻止しようと数十人が座り込む。島のオバァやオジィが大半で、年金生活者とおぼしき移住者や現場視察の教員や地方議員らの姿も。私を逡巡(しゅんじゅん)させていたのはある種の“後ろめたさ”だったのかもしれない。「こっちにおいで」とオバァが手招きしている。柔道の“空気投げ”でも食らったように、私は道路を横断していた。
本土では最近、ほとんど感じることのない不思議な“小宇宙”がそこには広がっていた。沖縄県警の機動隊員と警備会社の警備員が前後を固め、基地内では沖縄防衛局の職員が記録用のビデオカメラを回している。一見、物々しい“敵対”の光景なのだが、この空間に身を置いてみると感覚がまるで違うのである。「ツ−ショットをお願いね」とサングラスをかけた機動隊長と腕を組むウチナンチュ(沖縄)の中年女性。「それはちょっと…」と言いつつもちゃっかりと写真に納まっている。「あなたはどこから?」と問われ、「岩手から」と応答するとすかさず「岩手からも来てるぞ〜」とシュプレヒコ−ルが響き渡った。ジョギングをする米兵と日本製の小型軽トラックが目の前をすれ違った。「腹が出っ張っていたら、兵隊は務まらないさ」とクバの編み笠をかぶったオバァ。「火」と大書された軽トラには「EXPLOSIVES」(爆発物)というステッカ−が張られていた。
ゲ−ト前で「カチャ−シ−」が始まった。三線(さんしん)に合わせて踊る沖縄伝統の手踊りである。機動隊員はもちろんのこと、地元出身者が多いといわれる警備員にとってもこの伝統舞踊は体に染みついているはずである。これを踊れなければ、ウチナンチュの恥とさえ言われる。「この人たちもきっと、心の中で一緒に踊っていたのではないのか」と私にはそう思えてくるのだった。「そろそろ、余興の時間は終わりにしてよろしいでしょうか」と機動隊長はハンドマイクを握った。「すみやかに歩道に出てください。従わない場合は道路交通法違反の容疑で強制排除に入ります」―
カチャ−シ−が終わるタイミングに合わせたかのような“最後通告”に私は妙な感慨を覚えてしまった。「敵対の中のほんわかした連帯。そして、こうした連帯の輪に対し、総がかりで敵対しているのは他ならぬ私たちヤマトンチュ(本土)ではないのか。無知・無関心という装いをこらしながら…」―と。「暇とお金が少したまったら、また来てね。とにかく、諦めないで続けることが大切なのよ」とさっきのオバァが手を差し伸べてくれた。
不意に著名な思想家で詩人の谷川雁(1923―1995年)の文章の一節が脳裏をかけめぐった。谷川は「原点が存在する」というエッセイにこう書いている。「『段々降りてゆく』よりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。…一刻の休みもなく私達は新しい子供達を創らねばならない。まだ暁闇(ぎょうあん)以前に横たわっている、あの嬰児(えいじ)のために。そのために私達は『力足を踏んで段々降りて』ゆこう。平和のために戦い、平和へののぞみを歌おう。汝、人類の生存を望むか」(1954年5月)
日本最大の産炭地だった「筑豊」(福岡県)に思想の砦(とりで)としての“サ−クル村”を設立し、切り捨てられていく炭鉱労労働者の人権回復や「60年安保」闘争の戦列に加わった谷川の「原点」がこの文章に凝縮されている。谷川の同志だった記録作家、故上野英信さん(享年64歳)は1987年、病床のメモ用紙にこう書きつけた。
筑豊よ
日本を根底から
変革する、エネルギ−の
ルツボであれ
火床であれ
沖縄から南米に移民した一族の苦難の転変を描いた『眉屋私記』は上野の代表作のひとつである。沖縄にも心を寄せ続けていたのである。私はいま、敬愛するこの作家の“遺言状”に一部の変更を加える無礼を許していただきたいと思う。「筑豊」を「「沖縄」へと…。谷川のいう“原点”はいま、南のこの地にこそ存在していると思うからである。
(写真は機動隊と警備員の壁にはさまれながら、カチャ−シ−を踊るオバァやオジィたち。奇妙な連帯感が漂っていた=1月9日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲ−ト前で)