それはひょんなことがきっかけだった。やもめ暮らしで孤独をかこっていた酷暑の夏のある日、知人から声をかけられた。「歌なんかどう。腹の底から声を出すとすっきりするんじゃないか」―。ちまたでは「一人カラオケ」とか「一人居酒屋」などが結構、流行(はや)っているらしかった。“孤独人間”を生み出す社会のありようには関心があったものの、そんな自分の姿を想像するだけで背筋が寒くなった。ひとりで酒を飲み、ひとりでマイクを握る…余りにも不気味な光景ではないか。「一人では孤独からは脱出できない。逆に増幅するだけ…」と悶々(もんもん)とする日がそれからしばらく続いた。
和風喫茶「手風琴」―。隣町の北上市にある“てふうきん”という柔らかい名前の店を突然、思い出した。「こっちにおいで」とまるで手招きされているような気持になった。あえて「アコ−ディオン」とは呼ばない、その命名が人恋しさの募る私にぴったりだったのかもしれない。戦後最大のえん罪事件と言われた「松川事件」(昭和24年)を担当した同市出身の弁護士、後藤昌次郎さん(故人)のめい御さんである後藤昌代さんがこの喫茶店を経営している。メンバ−はバナナのたたき売りや皿まわし、南京玉すだれなどの大道芸にも秀(ひい)でており、障がい者施設の園長時代に一度、お招きしたことがある。笑いの渦が施設内にはね返り、利用者の拍手が途絶えなかったことを覚えている。もう十数年も前のことである。
「あの時、たしか歌声喫茶もやっていると言っていたなぁ…」―。酷暑をかき分け、恐るおそる足を運んでみた。首から名入りのプレ−トをぶら下げた20人以上が歌詞カ−ドを手にしていた。ほとんどが70歳を超すと思われるご婦人たちで、男性は私を含めて3人だけ。合唱が始まったが、声が上ずってなかなか唱和についていけない。いつぞやのお礼を述べると、「こんなイベントがあるけどいかがですか」と後藤さんから一枚のチラシを渡された。「第14回新宿歌声喫茶/ともしびinもりおか」と書かれていた。大げさに言うと、ビビッと火花が体を射抜いたような不思議な感慨にとらわれた。そして、その日―「11月9日」がやってきた。
もみじ、山小屋の灯、青い山脈、カチュ−シャ、琵琶湖周航の歌、高原列車は行く…。JR盛岡駅に隣接する「アイ−ナ」(いわて県民情報交流センタ−)の会場では“懐メロ”のオンパレ−ドが響き渡っていた。500席はすべて満席。陣取るのは“あの時”から一気に時を駆け抜けてきたような「若」を除いた「老(若)男女」たちである。時にはハンカチをはためかせ、こぶしを振り上げる。いつしか、その集団の中で声を張り上げている自分を発見した…。このエネルギ−とは一体、何だったのだろうか。
政治の季節と呼ばれた「60年安保」(1960年の安保条約改定反対闘争)の時、私は大学2年生だった。連日のように「安保ハンタ−イ」を叫んで国会に向かい、疲れた帰途の足は自然の流れのように当時、西武新宿駅前にあったビルに吸い込まれて行った。この元祖・歌声喫茶「灯(ともしび)」は1956(昭和31)年にオ−プンした。ある日、聞き覚えのあるメロディ−が耳に届いた。司会者が「北上川の初恋」と説明したこの歌はのちに「北上夜曲」として、一世を風靡(ふうび)することになる。高校生時代に仲間たちと秘かに口ずさんだ古里の歌がこんな形で歌い継がれていることが何となく誇らしげに思えた。
「歌ってマルクス、踊ってレ−ニン」―。当時、こんな戯れ歌が学生や労働者の間でもてはやされていた。「安保と三池(九州・三池炭鉱の反合理化闘争)」という激動の時代を象徴するのにぴったりのキャッチフレ−ズだった。一方で、こんな悲壮感の中にも何となくホッと安堵するような空間が歌声喫茶にはあった。マルクスやレ−ニンをめぐって、取っ組み合いのけんかが始まったと思えば、次の瞬間には互いに肩を組みながら、労働歌やロシア民謡を歌っている。一杯のトリスウイスキ−で夜更けまで粘った当時が妙に懐かしく思い出される。最盛期、「灯」の前には長蛇の列ができた。作家の火野葦平は名づけて「歌うビルディング」と呼んだ。
今回のイベントは元祖の精神を引き継ぐ現「ともしび」が企画した。老残の身を振りしぼるようにして雄たけびを上げていた時、周囲を壁に囲まれた個室でたったひとりで歌い続ける「一人カラオケ」の光景が目の前にボ〜っと浮かんだ。前に座っていた70代の女性が持参の茶菓子をポリポリかじりながら、ポツリと言った。「あんな贅沢な青春を持つことができた私は幸せだった」―。私もそう思った。
元祖「灯」の創立メンバ−のひとりに、歌唱指導をする丸山里矢という女性がいた。その一人娘で女優の丸山明日果さん(45)は母親の足跡をたどった自著『歌声喫茶「灯」の青春』のあとがきにこう書いている。「そんな母の生き方を、私は潔いと思う。同時にこうも思う。母が生きてきた時代は、潔くなければ生き抜けないほど、時の荒波が激しく押し寄せて来た時代だったのかもしれない、と」―。考えて見れば、歌声喫茶も「一人カラオケ」もその時代を映し出す合わせ鏡ではないかと思う。でも私にはひとりで歌いながら、自己陶酔や現実逃避にひたる勇気はとてもない。”歌声”世代の古い人間にとって、それはどうみても「不健全」な代物である。私は大勢の人たちに囲まれながら、ふと感じる「孤独」が好きである。
(写真はこぶしを振り上げて歌う参加者たち=11月9日午後、盛岡駅近くの「アイ−ナ」で)
腕組みをしながら、宙を仰ぐ人、歌集と首っ引きで歌いまくる人…。そこには戦後の荒波を潜り抜けた”青春”が充満していた=11月9日午後、盛岡駅近くの「アイーナ」で
それはひょんなことがきっかけだった。やもめ暮らしで孤独をかこっていた酷暑の夏のある日、知人から声をかけられた。「歌なんかどう。腹の底から声を出すとすっきりするんじゃないか」―。ちまたでは「一人カラオケ」とか「一人居酒屋」などが結構、流行(はや)っているらしかった。“孤独人間”を生み出す社会のありようには関心があったものの、そんな自分の姿を想像するだけで背筋が寒くなった。ひとりで酒を飲み、ひとりでマイクを握る…余りにも不気味な光景ではないか。「一人では孤独からは脱出できない。逆に増幅するだけ…」と悶々(もんもん)とする日がそれからしばらく続いた。
和風喫茶「手風琴」―。隣町の北上市にある“てふうきん”という柔らかい名前の店を突然、思い出した。「こっちにおいで」とまるで手招きされているような気持になった。あえて「アコ−ディオン」とは呼ばない、その命名が人恋しさの募る私にぴったりだったのかもしれない。戦後最大のえん罪事件と言われた「松川事件」(昭和24年)を担当した同市出身の弁護士、後藤昌次郎さん(故人)のめい御さんである後藤昌代さんがこの喫茶店を経営している。メンバ−はバナナのたたき売りや皿まわし、南京玉すだれなどの大道芸にも秀(ひい)でており、障がい者施設の園長時代に一度、お招きしたことがある。笑いの渦が施設内にはね返り、利用者の拍手が途絶えなかったことを覚えている。もう十数年も前のことである。
「あの時、たしか歌声喫茶もやっていると言っていたなぁ…」―。酷暑をかき分け、恐るおそる足を運んでみた。首から名入りのプレ−トをぶら下げた20人以上が歌詞カ−ドを手にしていた。ほとんどが70歳を超すと思われるご婦人たちで、男性は私を含めて3人だけ。合唱が始まったが、声が上ずってなかなか唱和についていけない。いつぞやのお礼を述べると、「こんなイベントがあるけどいかがですか」と後藤さんから一枚のチラシを渡された。「第14回新宿歌声喫茶/ともしびinもりおか」と書かれていた。大げさに言うと、ビビッと火花が体を射抜いたような不思議な感慨にとらわれた。そして、その日―「11月9日」がやってきた。
もみじ、山小屋の灯、青い山脈、カチュ−シャ、琵琶湖周航の歌、高原列車は行く…。JR盛岡駅に隣接する「アイ−ナ」(いわて県民情報交流センタ−)の会場では“懐メロ”のオンパレ−ドが響き渡っていた。500席はすべて満席。陣取るのは“あの時”から一気に時を駆け抜けてきたような「若」を除いた「老(若)男女」たちである。時にはハンカチをはためかせ、こぶしを振り上げる。いつしか、その集団の中で声を張り上げている自分を発見した…。このエネルギ−とは一体、何だったのだろうか。
政治の季節と呼ばれた「60年安保」(1960年の安保条約改定反対闘争)の時、私は大学2年生だった。連日のように「安保ハンタ−イ」を叫んで国会に向かい、疲れた帰途の足は自然の流れのように当時、西武新宿駅前にあったビルに吸い込まれて行った。この元祖・歌声喫茶「灯(ともしび)」は1956(昭和31)年にオ−プンした。ある日、聞き覚えのあるメロディ−が耳に届いた。司会者が「北上川の初恋」と説明したこの歌はのちに「北上夜曲」として、一世を風靡(ふうび)することになる。高校生時代に仲間たちと秘かに口ずさんだ古里の歌がこんな形で歌い継がれていることが何となく誇らしげに思えた。
「歌ってマルクス、踊ってレ−ニン」―。当時、こんな戯れ歌が学生や労働者の間でもてはやされていた。「安保と三池(九州・三池炭鉱の反合理化闘争)」という激動の時代を象徴するのにぴったりのキャッチフレ−ズだった。一方で、こんな悲壮感の中にも何となくホッと安堵するような空間が歌声喫茶にはあった。マルクスやレ−ニンをめぐって、取っ組み合いのけんかが始まったと思えば、次の瞬間には互いに肩を組みながら、労働歌やロシア民謡を歌っている。一杯のトリスウイスキ−で夜更けまで粘った当時が妙に懐かしく思い出される。最盛期、「灯」の前には長蛇の列ができた。作家の火野葦平は名づけて「歌うビルディング」と呼んだ。
今回のイベントは元祖の精神を引き継ぐ現「ともしび」が企画した。老残の身を振りしぼるようにして雄たけびを上げていた時、周囲を壁に囲まれた個室でたったひとりで歌い続ける「一人カラオケ」の光景が目の前にボ〜っと浮かんだ。前に座っていた70代の女性が持参の茶菓子をポリポリかじりながら、ポツリと言った。「あんな贅沢な青春を持つことができた私は幸せだった」―。私もそう思った。
元祖「灯」の創立メンバ−のひとりに、歌唱指導をする丸山里矢という女性がいた。その一人娘で女優の丸山明日果さん(45)は母親の足跡をたどった自著『歌声喫茶「灯」の青春』のあとがきにこう書いている。「そんな母の生き方を、私は潔いと思う。同時にこうも思う。母が生きてきた時代は、潔くなければ生き抜けないほど、時の荒波が激しく押し寄せて来た時代だったのかもしれない、と」―。考えて見れば、歌声喫茶も「一人カラオケ」もその時代を映し出す合わせ鏡ではないかと思う。でも私にはひとりで歌いながら、自己陶酔や現実逃避にひたる勇気はとてもない。”歌声”世代の古い人間にとって、それはどうみても「不健全」な代物である。私は大勢の人たちに囲まれながら、ふと感じる「孤独」が好きである。
(写真はこぶしを振り上げて歌う参加者たち=11月9日午後、盛岡駅近くの「アイ−ナ」で)