根室再訪―追憶の旅(2):はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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棟梁格の絵描きの邦ちゃん夫婦、ひげの征三、風呂屋のひろしちゃん…。その名の由来は忘れてしまったが、根室勤務時代の悪童連のサ−クル「ガムツリ−」の仲間たちがいまや遅しと待ち構えていた。記者生活の原点でもある“国境の街”の33年ぶりの再訪に胸が高鳴った。根室駅前の老舗のすし屋の一角…まるで「あの男」に生き写しのような中年男が目の前に座っていた。
かつて、終生の友情を誓った「平野禎邦(よしくに)」というフリ−カメラマンがいた。朝鮮の血を引くこのカメラマンと私は根室の地で遭遇した。一目見て、運命的な出会いを感じた。憂いの中に怒気を含んだエネルギ−に圧倒された。この男とならば、何でもできると思った。ソ連国境警備隊の追尾を交わしながらの密漁船の同乗取材、サハリン・北方領土での潜入ルポ、相次ぐ炭鉱災害の現場取材…。その都度、悲しみの中に人間味あふれる写真を写しとってきた。着氷してバランスを崩しそうになる小型密漁船の中で、毛ガニや花咲ガニ、タラバガニの踊り食いを堪能した日々を昨日のことのように思い出す。
「ぼくの北洋は、北の辺境に流れ着き棲(す)むものたちの、海もひとも魚も、すべてが一体となった風景のなかにあった」(あとがき)―。「ていほう」(と私は彼のことを呼んでいた)はその集大成を『北洋―おれたちの海』(1983年4月、小学館)と題して刊行した。比類なき写真集として大きな注目を集めた。贈られたその写真集の裏表紙には骨太の字でこう書かれている。「地の底に這(は)う闇も、空と海の狭間(はざま)に漂う明も、人の生活に非ず。人が人として唯一、生を享受できるのは、この大地の上」―。あらゆる現場に身を挺してきた男ならでは実感のこもった言葉だった。
「ちょうど、父が生きた人生に達しました」と目の前の中年男が口を開いた。長男の朋光君(48)だった。「ていほう」は写真集を世に問うた9年後の1992年10月、48歳の若さでがんで旅立った。当時、東京勤務だった私も急きょ、「しのぶ会」にかけつけた。彼の活動を陰で支え続けた「ガムツリ−」や物心両面で援助してきた人たちなど数十人が集まった。「彼がそばにいなかったら、闇の世界に足を踏み入れることはできなかったと思う。これほどの喪失感を感じた男はいなかった」と私は不覚にも涙を流しながら、別れの言葉を述べた。
北方領土をめぐる国会議員の「戦争」発言に批判が集中しているが、いつの時代でも“国境の街”はそこに住む住民や零細漁民などを「人質」にとった政治問題として、存在し続けてきた。だから、その地を取材する者にとっては、人質たちの“落とし前”の付け方が最大の興味の対象になる。つまり、国の政策に翻弄(ほんろう)される者たちの生きざまを直視しなければ、何も見ないことになってしまう。根室に赴任した私はまず、闇の世界にうごめく人脈探しから始めた。嗅覚の鋭い「ていほう」がいつも同行した。国境警備隊側に情報を提供する見返りにカニの密漁を見逃してもらう「レポ船」の暗躍、高速エンジンを搭載して違法操業を繰り返す「特攻船」…。
ある密漁船の船主と密漁カニを卸す業者との間に不思議な“信頼”関係ができていった。取材に回るたびに、警察や海上保安部の尾行が付いていることは先刻承知していた。ある時、警察署長からお座敷が掛かった。当時、知床半島の付け根で、遺体なき殺人事件が起きていた。北方領土の貝殻島周辺のコンブ群生地に頭部が絡まっているという噂があった。「あそこには日本の警察権が及ばない。あなたの筋(密漁者)で、あのガイコツを日本側に持って来てもらうことはできまいか」と署長は言った。「1週間、密漁に目をつぶってもらえれば…」と私は条件を出した。さすがに、警察側が密漁を見て見ぬふりすることはできない。この“商談”が不調に終わったのは当然である。いつしか、ガイコツも流氷とともにいずこにか流れ去り、この事件は未解決のままにピリオドを打った。
有島武郎の『生れ出づる悩み』のモデルは北海道岩内町出身の画家、木田金次郎(1893〜1962年)と言われる。漁業のかたわら、画業に没頭した。イニシャルが同じ根室の「K・K」は暴力団の流れをくむ密漁業者で、私の重要な情報源だった。ある時、この男がポツリともらした。「オレはいま、裏街道の人間だが、おじちゃんは有名な画家なんだぞ」―。その誇らしげな表情がいまも忘れられない。金次郎の血脈に当たることにちょっと驚いたが、それっきり忘れていた。
今回の長旅のハンドルを握ってくれた後輩記者の菅谷誠君(70)はイタリア文学の翻訳をするかたわら、画家「木田」の業績を検証するなどの地道な仕事を続けている。だから、「K・K」との面談も根室再訪の大きな目的のひとつだった。「ひと足、遅れてしまったな。K・Kは3ケ月ほど前にがんで亡くなったよ」とすし屋の宴席で絵描きの邦ちゃんが言った。妻に先立たれ、一人息子も交通事故の後遺症を苦にして自死したことをその場で知った。情報を得るお返しに家庭教師をしていた美男の中学生だった。プツンと糸が切れたような気がした。
酔いが回った宴席では耳慣れないロシア語が飛び交っていた。「エカシ」(長老)を自称するひげの征三と10日ほど前に朝日新聞根室支局に着任した大野正美記者が「オ−チンハラショ−」とかなんとかやっている。ロシアと国境を接するこの地ではロシア語の日常会話を話す住民は結構いる。大野記者はモスクワ支局長も務めたロシア語の達人である。「何でもありのごった煮。だから、国境の街は面白いんだよな」ともう一人の記者がちょび髭をいじりながら、ニヤニヤしている。19年前、旧石器をねつ造し、世紀の発見を自作自演した「ゴットハンド(神の手)」事件をスク−プした毎日新聞根室支局長の本間浩昭記者である。根室に骨を埋めるつもりでいる。敵ながら、あっぱれ…よだれが出るような見事なスク−プだった。
密漁船の船主だった「Y・T」に会いたいと思った。「ていほう」と乗り込んだのはこの男の持ち船だった。レポ活動をしながら、世界中を股にかけたと豪語していた。記憶が薄れた道順を辿ってやっと行き着くと、遊び仲間と山菜取りに出かけるところだった。「おやじ、海じゃなくて山なの?」と声をかけると、破顔一笑した表情が次の瞬間、泣きべそになった。「よく、来てくれたのう。密漁の時代はとっくに終わったよ。わしの武勇伝は(毎日)の本間記者に伝えるから…。母ちゃんには逃げられ、いまはやもめさ」と86歳になる老密漁者は力なくつぶやいた。
「天国と地獄が同居する」―根室のまちは霧に包まれ、つかの間の晴れ間に列島最後の千島桜が満開の花を咲かせていた。国境を目指した人間模様が織りなす「人生劇場」がそこに広がっていた。
(写真は満開の千島桜に抱かれながら…=5月17日、根室市役所前で)