沖縄−弔いの旅路:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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「あんたが来るっていうので、今朝、近くの海岸を散歩していた時に見つけたんだよ。9月の台風で流れ着いたと思うんだが、ジュゴンになった奥さんはきっと、こんなサンゴ礁の世界に生きているはずだよ」―。沖縄・読谷村在住の彫刻家、金城実さん(79)はこう言って、妻の遺影の前にサンゴを置き、ろうそくと線香をともした。私の沖縄の旅はいつも“金城節“を聞くことで最終章を迎える。反戦・反基地・反差別の彫刻家として知られる金城さんの話には沖縄の受難の歴史がびっしりと詰まっているからである。今回はこれに妻の弔いが加わった。供えられた泡盛の香りがあたりに漂った。
「電話では何回か話をする機会はあったが、お会いできなかったのが残念だ」と金城さんは話し、ジュゴンの化身として死後を生きる妻の姿をスラスラっとデッサンした。さすがは彫刻家である。アトリエのまわりには様々な表情をした野仏がずらりと並んでいた。近くに沖縄戦で住民が集団自決(強制集団死)した自然壕(ガマ)「チビチリガマ」がある。避難した約140人のうち、83人の住民が非業の死をとげた。昨年9月、まだ遺骨が残っているガマが荒らされた。県内に住む16歳〜19歳の少年が器物損壊の疑いで逮捕された。少年たちは「心霊スポットだと思った」と自供した。保護司に任命された金城さんは沖縄戦の記憶を野仏に託すことにし、少年たちと一緒に制作した。いま、12体がガマの周辺に安置されている。
沖縄国体(1987年)の際、読谷村のソフトボ−ル会場に掲げられた日の丸を引き下ろして焼いた事件で、当時の沖縄の置かれた立場を訴えた知花昌一さん(70)は現在、僧侶の資格を有し、民宿も経営している。金城さんを訪問する際の常宿でもある。平和運動を続けている知花さんが言った。「やんばるの森の中に山小屋がある。沖縄が好きだったという奥さんの供養をそこでやらせてほしい」。金城さんも同行することになった。妻とは生前、辺野古の現場やヘリパット(垂直離着陸機)の着陸基地の建設が強行された「高江」を訪れたことがある。山小屋はその現場に近い大宜味(おおぎみ)村にあった。夕日が沈む眼下に、美しいサンゴ礁の海と白い砂浜で知られる古宇利島(こうりじま)が見えた。知花さんの読経が濃い緑が織りなす森の中に響いた。「良かった。弔いの旅に同行できて、オレもうれしいよ」と金城さんが小さな声でつぶやいた。
「琉球人遺骨返還、京大を提訴/尚氏子孫ら、自己決定権訴え」(12月5日付「琉球新報」)―。妻の散骨を終え、石垣島から沖縄本島に移動した5日、社会面トップにこんな記事が載っていた。1929年、京都大学(旧帝大)の人類学者らが今帰仁村(なきじんそん)の百按司(むむじゃな)墓から持ち出した遺骨の返還を求めて、「琉球民族遺骨返還研究会」(松島泰勝代表)が京都地裁に提訴したことを伝えていた。原告団は「現在も続く日本の植民地主義を許さず、琉球の人々が自己決定権を行使する裁判だ」と主張していた。原告のひとりに金城さんも名前を連ねていた。
2年前、同じように研究用に供されていたアイヌ民族の遺骨12体分が85年ぶりに墳墓の地(アイヌコタン)に再埋葬された。返還訴訟で札幌地裁と和解が成立した結果で、このほかに全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。同様の裁判は北海道の各地で続いており、今回の琉球人遺骨返還訴訟はこれに続くものとして注目される。21年前、先住民族の権利を主張して起こされた「二風谷(にぶたに)ダム建設」裁判で、札幌地裁は民族的マイノリティの権利保護を定めた国連自由規約に基づき、アイヌ民族を初めて「先住民族」として認める画期的な判断を下した。
「そう、この列島の北と南からヤマト(本土=内地→中央)の支配原理をあばき出す。その原点の戦いがいま、始まったのさ」―。金城さんの覚悟が伝わってきた。もうひとつの大きな運動が同時に開始されようとしている。妻にふさわしい弔いの旅のフィナ−レだと思った。
(写真は拾ってきたサンゴを飾り、妻の遺影に語りかける金城さん=12月8日午後、沖縄県読谷村のアトリエで)