「アラセブ」軍団の解散と”敗北者”宣言:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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「アラセブ」(70歳)、最期の決断→「アレセブ」(74歳)、再度の挑戦……。2期8年間の議員生活を支えてくれた「増子義久を支える会」(小田島剛三会長)の解散式を兼ねた引退パーティが今月(10月)25日に行われた。会場には改選市議選の投開票日の今年7月29日に急逝した妻の遺影と2回の当選証書が飾られた。「お世話になった人たちにきちんとお礼をしなければ…」と妻は秘かにこの日のために洋服を新調していたが、それもかなわずに小さな写真に納まった姿だけの参加になった。亡き妻の視線を背後に感じながら、私は「最終的には私の全面敗北でした」とお礼のあいさつを“家出・置手紙”事件から切り出した。
「記者とは別の世界でもう一度、自分を試してみたい。市議出馬にご理解を…」―。こんな置手紙を書いて、私は数日間、家を留守にした。立候補断念のたいていの理由は家族の理解が得られないということだと聞いていた。告示日まであと1週間余りに迫っていた。“家出”の際、ス−ツの上着とネクタイをバックに隠し持ち、当時、勤めていた知的障害者施設のパン工房の片隅で職員に写真を撮影してもらった。選挙ポスタ−用の写真である。そして、数日後―、ぴしゃりと拒絶されるだろうと思いながら、恐るおそるドアを開けた。「あんたって、案外、ケチな男ね。こんな大事な話をどうして私の前でできなかったの」。言葉はきつかったが、顔は笑っていた。こうして、第二の人生の“開かずの門”は意外にもあっけなく、開いたのだった。
「面食らったのはこっちだったよ」と小田島会長が言葉を引き取った。「告示直前、オレ出るから、よろしく。いきなりだよ。40年以上もふるさとを留守にしていたのだから、泡沫(ほうまつ)候補もいいとこ。最初はとても無理だと思った」―。当然、地盤などはない。頼りは小学校から高校までの同級生しかいなかった。ずっと一緒だった剛ちゃん(小田島会長)がすぐ、周りに声をかけてくれた。意外な声が返ってきた。「そういえば、オレたちの同級生には議員がひとりもいねじゃな。みんな第一線を退いて、暇を持て余している。老化防止のつもりでやってみっか」。当時、「アラウンド70」(アラセブ)―、つまり、古希(こき)を迎えた70歳前後の世代の活躍が注目を集めていた。私たち同級生はちょうど、そのトップバッタ−の位置にいた。1119票。定数34人中30位、大方の予想をくつがえした“大勝利”だった。
70年の人生そのままの「生身の自分」を未知の世界に置いてみたいと思った。だから、どこにも属さない「無所属・無会派」…いわば“増子党”を押し通した。こんな一匹オオカミに襲いかかったのが、お化けや妖怪の仮面をかぶった議員集団…魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちだった。これを迎え撃ったのが、わが「アラセブ」軍団である。定例会のたびに2階の傍聴席からにらみを利かせた。計32回の定例会に皆勤した老兵もいた。初当選の約7ケ月後の2011年3月11日、私の71歳の誕生日のその日に東日本大震災が発生した。
全国から集まった義援金を市の歳入に計上するという「義援金流用」疑惑、傍聴に訪れた被災者に向けられた「さっさと帰れ」発言、この暴言の真相究明に立ち上がった私に対する集団リンチさながらのバッシング、締めくくりは「議会の品位を汚した」という理由で科せられた、花巻市議会はじまって以来の「懲戒」(戒告)処分…。私は被災者(地)支援に走り回る一方で、足元の議会からの攻撃にも対峙しなければならなかった。内陸に避難している被災者や卑劣な中傷を見かねた地元の有志などが”参戦”してくれた。同級生を主体にした「アラセブ」軍団はその輪を広げていった。この日の解散式には30人以上が集まった。「増子を応援しているというだけで、村八分に合いそうになった」、「支援にかけた超人力に舌を巻いた」―。アラセブの猛者(もさ)たちがニコニコしながら、“秘話”を披露してくれた。
「ある人から、『あなたは何時から猛獣使いになったのか』と皮肉っぽく言われたことがあった」―。「支える会」事務局長の神山征夫さんが「いまだから…」といって、締めのあいさつをした。「オオカミだかライオンだかは分からないが、確かに増子議員は正論を掲げて、議会内で暴れまくった。しかし、私の任は今日をもって終わる」と話し、ニヤリと笑って続けた。「今後、この猛獣が議会の外でどんな風に振る舞うのか。私はそこまでの責任は負えない」―。
私の妻は2期目の出馬の直前に「ステ−ジ4」(末期)の肺がんを宣告された。「1期だけで辞めたら、応援してくれたアラセブの人たちに失礼じゃないの」―。躊躇する私の背中を押したのは逆に病身の妻の方だった。冒頭のあいさつで私が「全面敗北」と言ったのはそういう意味からである。1期目に比べて8人減の定数26人中、最後から2番目という薄氷の当選だったが、それでもわずかではあるが55票の上積みができた。「それにしても…」と思う。妻が他界したその日が改選市議選の投開票日だったという、余りにも劇的すぎる「偶然」は依然として、私の謎である。この偶然が「野に放たれた野獣たれ」という妻の“遺言”だったとすれば、敗北者の身としてはそれに従うしかないと思っている。勘違いされたら困るので、最後につけ加えておきたい。私の「敗北」は魑魅魍魎たるあなたたちに対してではなく、妻に対してであるということを…。
(写真は「アラセブ」軍団の重鎮たち。左から神山事務局長、北湯口晴志幹事、小田島会長、長沼健司幹事。美しい花々に囲まれ、遺影の妻は微笑んでいるようだったた=10月25日、花巻市内のホテルで)