さらば、「イ−ハト−ブ」議会―そして、さようなら、妻よーさらに、医師の本然ということについてーあぁ、無情の中部病院かな:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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さらば、「イ−ハト−ブ」議会―そして、さようなら、妻よーさらに、医師の本然ということについてーあぁ、無情の中部病院かな
2018.07.22:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「新人議員にとって、そこはまさに異次元の世界だった。見るもの聞くものすべてが珍しいことばかり」(平成22年9月28日付「岩手日報」日曜論壇)という書き出しで始まる、その寄稿文はこう結ばれている。「議会改革の入り口は、まさに議場出入り口の開閉行為の是非を論じることから始めなければならない」―。アラセブ(70歳)「最後の決断」を掲げた8年前(平成22年7月)の花巻市議会議員選挙で、初当選した私は初めての9月定例会の光景に腰を抜かしてしまった。議場の出入り口に陣取った若い議会事務局員がホテルのドアマンよろしく開閉にいそしみ、胸を張った議員や市幹部が次々と入場していった。私が投稿したこの記事には「理解できぬ議員の『特権』」という見出しが付けられていた。
恐るおそる議場に足を踏み入れて、二度びっくりした。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に登場する妖精たちも顔負けの魑魅魍魎(ちみもうりょう)や道化役者が跋扈(ばっこ)する不思議な世界が目の前に広がっていた。当時は民主党による政権交代に伴う沖縄の「米軍基地」問題の顕在化や、引き続いて起きた東日本大震災と福島原発事故によって、政治の真価が問われる激動の時代に立たされていた。郷土の詩人、宮沢賢治が詩「雨ニモマケズ」で訴えた、受難者に寄り添う「行ッテ」精神が脚光を浴び、全世界から支援の手が差し伸べられた。ところが、足元では…。「義援金」流用疑惑や議員による被災者への暴言(「さっさと帰れ」発言)、追及した私に対する懲罰など「イ−ハト−ブ」(賢治の理想郷)の片隅では真逆の密室劇が連日のように繰り広げられていた。
あれから8年―(7月)22日、花巻市議会議員選挙が告示された。26の定数に対し、28人(現職18人、新人9人、元職1人)が立候補した。そこに私の名前はない。今回、出馬を見送って、初めて真夏の夜の“悪夢”からハッと目覚めたような気がした。いま目の前には「3・11」を思い出させる西日本豪雨の惨状が荒野のように広がっている。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」(「雨ニモマケズ」)―。賢治の警句が今さらのようによみがえってくる。震災の記憶しかり、沖縄の米軍基地問題しかり…。世の中はこの警句に逆らうように推移してきたように思える。中央も地方もこの間、一気に奈落へと転げ落ちていった。私の議員生活はまるで虚空(こくう)に向かって虚しく、叫びつつけてきた2期8年間だったのだろうか。
「共産党や公明党は『保守』で、自民党と日本維新の会が『リベラル』(革新)」―。早稲田大学現代政治経済研究所などが40代以下の政治意識を調査した結果。若者の保守化傾向が浮き彫りになった。しかし、このことは同時に地方議会で「保革」の境界線があいまいになったことの証左でもあった。国政の場で「議院内閣制」が機能しなくなってきたのと歩調を合わせるようにして、地方議会の基本原則である「二元代表制」も崩壊の淵に立たされている。いわゆる「オ−ル与党化」である。
例えば、当花巻市議会では議員の生命線である「質問権」が行政トップによって、蹂躙(じゅうりん)されているにもかかわらず、それに異議申し立てする議員はわずかしかいない。本来なら、議会改革を先導すべき、いわゆる「革新系」議員が”保守化”(オ−ル与党化)に手を貸すという体たらくである。任期最後に当たる6月定例会で、私は上田(東一)市政に対する総括的な質問を37分間にわたって行った(6月7日付当ブログ参照)。政治理念や政治哲学を最後に問いたいと思ったのである。「書を捨てよ、町に出よう」―。寺山修司をてらったような暴言が飛び出した。その実、寺山の真意を理解している風もなく、こう言い放った。「(増子)議員は市政に関係のない本ばかり読んでいるらしい。外の声にも耳を傾けた欲しい」
忠告に従って、以前購入した『地方議員』という本を再読してみた。著者の佐々木信夫さんは岩手県出身の元東京都職員で、行政学や地方自治論のプロである。こんな文章が記されていた。「無批判的にオ−ル与党化していく議会が、どんな役割を果たすのだろうか。議会の本来持つ野党的機能などはどこかに消え、すべて首長の提案を丸呑みする、単なる追認機関となってしまう。じつはそのことが、首長などの役所ぐるみの汚職をはびこらせる要因にもつながる。議会は、執行機関との関係では与党的な行動ではなく、基本的には野党的な関係にあることが期待されている。機関対立主義という考え方がそれだ。議員はそのことを忘れて行動してはならない」
上田市長は答弁の際にこうも口走った。「(増子)議員の質問は抽象的で答えようがない。見てください.ほかの議員の皆さんは市政にかかわる事柄をきちんと聞いてくださる」―。質問時間を持て余したうえ、まるで”御用聞き”みたいな質問を見せつけられてきた身としては、鼻白む思いである。議員自身が馬鹿にされていることに気が付かない―これを称して「愚民政治」というのであろう。つまり、議員だけではなく、彼らを選ぶ有権者も馬鹿にされているということである。「安倍」一強ならぬ、「上田」一強体制がこうして、着々と築かれていった。これはもう、シェイクスピアの喜劇どころか、「賢治」悲劇の極みと呼ぶしかない。
「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」―。今年1月26日に逝去した元自民党幹事長の野中広務さん(享年92歳)は、「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)の採決に際し、異例の発言をした。絞り出すような口調で、野中さんは沖縄での体験を口にした。「タクシ−の運転手が突然、ブレ−キを強く踏んで車を停め、『あそこのサトウキビ畑で私の妹が殺された』と言ったかと思うと、急に泣き出した。号泣はしばらく止まらなかった」
この列島の端から端まで、野中さんの思いを裏切るような方向に進んでいる。つまり、全国規模の翼賛化の動きである。加えて、最近の政治家のことばの劣化は目を覆うばかりである。森友・加計問題、公文書改ざん問題、セクハラ発言…。そして、その極めつけはオウム真理教元幹部の集団処刑と西日本豪雨が切迫するさ中、安倍晋三首相らが参加した「赤坂自民亭」なる”料亭”での酒盛り。時事芸人のプチ鹿島さんはこう語っている。「こういう時、いちいちギョッとして、反応しなくちゃいけないと思うんです。『あっ、また始まった』で済ませていたら、後で取り返しのつかないことになるんじゃないでしょうか」(7月21日付「朝日新聞」耕論「政治家/空疎なことば」)―。そういえば、私自身「ギョッとし続けた」8年間だったような気がする。
今月29日、花巻市議会の新しい顔ぶれが決まる。議員としての矜持(きょうじ)を持し、正々堂々とと論陣を張ることのできる有為な議員の誕生を切に望みたい。高々と掲げられた「イ−ハト−ブはなまき」という将来都市像によもや、泥を塗ることがないように…。最後にナチスドイツと闘い続けたユダヤ系哲学者、ハンナ・アーレント(1906−1975年)の言葉を紹介して、ペンを置きたい。「凡庸なる悪」こそが政治を腐敗させる最大の要因であることを銘記しつつ…。
「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」―。これからは外野席(傍聴席)から密室劇の成り行きを見守っていきたいと思う。では、さらば「イ−ハト−ブ」議会…。改選議員(26人)による初議会(9月定例会)は8月31日、開会した。
(写真は最後の一般質問。登壇質問としては過去最長を記録した=6月7日、花巻市議会議場で)
※
2期8年間にわたって、お届けしてきた議会報告(ブログ)「イ−ハト−ブ通信」(1期目は「マコトノクサ通信」)を今回をもって、閉じたいと思います。脈絡のない乱暴な文章を書き連ねてきましたが、長い間のご愛顧に心から感謝を申し上げます。また、別の形でお会いする機会のあることを願っています。酷暑が続いています。西日本の被災地の皆さま、そして、お付き合いいただいた多くの皆さまのご健康をお祈りいたします。
2018年7月22日
花巻市議会議員 増子 義久
《追記−1》
花巻市議会議員選挙の投開票日の29日未明、私の波乱万丈の議員生活を寡黙に見守り続けてくれた妻が旅立った。後半生は重い病と闘い続けた75年の人生だった。人生の最後を楽しんでもらおうと思っていたのに、不憫でならない。沖縄・石垣島に住む一人娘夫婦と二人の孫たちのそばのサンゴ礁の海に眠ってほしいと思う。新聞記者と議員という生活で苦労のかけっぱなしだった。こんな荒っぽい人生を支えてくれるのはたぶん、君しかいなかった。ありがとう。さようなら。
《追記ー2》
詳しくは言及しないが、数年間に及ぶ妻のがん闘病記(肺がん)を観察しながら、医療現場の荒廃を感じることが度々あった。今回の直接の死因は消化器出血による”突然死”だったが、消化器内科での診察予約日の前日に息を引き取った。この間、呼吸器内科の主治医から消化器異状(小腸)の告知があったが、予約日まで約2週間の空白があった。妻は見る見るうちにやせ細っていった。本日(8月6日)、私自身の診察が同じ主治医(呼吸器内科)の元であったため、「医療法」の骨子(いわゆる「説明と同意」原則)をコピーして手渡した。以下に転載するが、医師の本然に立ち返ってほしいという願いからである。医師不足や患者数の増加に責任を転嫁してはならない。この日は73回目の広島原爆の日であった。
第1条 この法律は、医療を受ける者による医療に関する適切な選択を支援するために必要な事項、医療の安全を確保するために必要な事項、病院、診療所及び助産所の開設及び管理に関し必要な事項並びにこれらの施設の整備並びに医療提供施設相互間の機能の分担及び業務の連携を推進するために必要な事項を定めること等により、医療を受ける者の利益の保護及び良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を図り、もつて国民の健康の保持に寄与することを目的とする。
第一条の二 医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない。
第一条の四 医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、第一条の二に規定する理念に基づき、医療を受ける者に対し、良質かつ適切な医療を行うよう努めなければならない。
2 医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない。
《追記ー3》
当ブログの追記−2を書いた直後、岩手最古のジャズ喫茶オーナーで、東日本大震災で被災後、花巻市に移住していた友人の訃報が飛び込んだ。8月2日に食道がんの手術を受け、4日後の5日夕、急死したのだという。妻と同じ病院の消化器内科での出来事だった。単なる偶然だとはとても思えない。何かが欠けているのではないか。この国の劣化現象はあらゆる分野に及んでいるのかもしれない。大槌町の瓦礫の荒野の中で、レコードの破片を拾い集めたことを昨日のことのように思い出す。
《追記ー4》
岩手最古のジャズ喫茶オーナーだった佐々木賢一さん(享年77 追記ー3)の葬儀・告別式が9日、ふるさとの大槌町で営まれた。東日本大震災で消失した菩提寺「江岸寺」のプレハブの仮本堂には訃報を聞きつけたジャズファンが集まった。畏友のサックス奏者、坂田明さんの「ひまわり」(同名の映画主題歌)と「家路」(ドボルザーク)が髭の賢ちゃんの遺影の前に響いた。震災直後、跡形もなく消えてしまったジャズ喫茶「クイーン」の跡地で吹いたのも同じ曲だった。辛うじて崩壊を免れた先祖の墓に賢ちゃんは、みんなに見守られながら帰っていった。妻に続いて、ジャズの奥義を教えてくれた友人が去り、今度は沖縄のこころを訴え続けた沖縄県の翁長雄志知事が旅立った。大切な人たちが次々にいなくなる。寂しい…。この日は73回目の長崎原爆の日であった。
《追記ー5》
妻の診察の一件(追記ー2)で、私の主治医でもある同じ呼吸器内科の医師との信頼関係が崩れたと判断。8月6日の受診の際に看護婦を通じて、他への転院を希望し、紹介状の作成を依頼した。この際に必要な「診療情報提供料」も支払い、郵送の確約を得たが、11日までに届かなかった。ホームページを見ると、13日から3日間は盆休みの一斉休診となっており、届くのは早くても盆明けの16日以降になりそう。実は6月29日に妻の要介護・要支援認定の申請を花巻市に行ったが、必要書類である主治医の意見書の提出が遅れたため、審査判定が遅れるという経緯があった。この組織はどこまでタガが緩んでいるのか。もう、病院名を秘する必要はあるまい。当該病院はれっきとした「岩手県立中部病院」(北上市)である。
なお、ブログ表記の市議職は8月1日をもって、「前職」になりました。肩書の訂正などデザインの衣替えを外注していますので、今しばらくお待ちください。
《追記ー6》
以前から、口にするのも憚(はばか)られるようなとかくの噂がささやかれる病院ではあったが、妻が実際に治療を受けることになるまでは「まさか」という気持ちが強かった。しかし、今となっては不本意にも「やはり」という思いにさせられてしまう。本日(8月11日)、転院に必要な紹介状がやっと届いた。私とこの病院との関係はこれをもって終わるが、病院一丸となって、患者・家族に寄り添う組織作りに立ち上がってほしいと切に望みたい。
「イーハトーブ通信」としてのブログはこの稿をもっていったん閉じ、近く新しい形で再開したいと思います。