●私の2011年3月16日:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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まずは四号線沿いの三田商会さんのガソリン渋滞へ。自転車はスタンドに置かせていただいて、ビラ配りは歩いて行った(運転席の窓は車道側ですからね)。
先頭の方の数台は昨夜からの車中泊組。寝ている車は起こさないようにスルー。起きている方のみお声をかけさせていただいて回った。みなさんガソリンスタンドのスタッフが整理券を配りに来たんだと思っていたので、朝からみなさんにがっかりさせてしまいながらビラ配り。
「おはようございます、がっかりさせてすみません、おそば屋さんです」と、申し訳ない気持ちと、お疲れのところを励ましたい気持ちと入り混じった、なんとも言えない心境で。割と自分的には愛想の良い感じのいい青年だと思っているので(自分で言うのはおかしいですが、自己分析です(苦笑))、中には露骨に嫌な顔をされることもありましたが(されて当たり前だと覚悟していましたけど)、多くの方が「なんだがっかり(笑)」と、結構皆さん温かくビラを受け取ってくれたり、前の方の様子をお話したりしてお互い励ましあいながらビラ配りしてました。
しばらくビラ配りした感じで、やめた方が良いと感じたら途中でやめようと思っていたのですが、案外みなさん温かく迎えてくれたので本当に良かったです。
三田商会さんの行列はたしか、吹張町のかんのシューズさんの辺りまでビラ配りして、まだまだ行列も続いていましたがそこで切り上げました。
次に向かったのは上町の宮沢商店さん。
仲町を鳥谷ヶ崎神社方面に伸びていた宮沢商店さんの給油待ちの行列も同じようにビラ配りを進め、久保クリニックの手前辺りで切り上げて次のスタンドへ。
そして今度は西大通りの丸高石油さんへ。
丸高さんの自宅に自転車を置かせていただいてビラ配りスタート。もうこの時間には並ぶ車も増えており、丸高石油さんから西へのび、「かね山」さんを曲がってだぁすこ方面へ延々と車列が続いていました。だぁすこさんの丁度目の前の辺りでパトカーが「丸高石油さんの給油は終了しました」とスピーカーで鳴らしながら回ってきたので、私もそこでビラ配り終了。このときたまたま私を知っているという青年会議所の方が車列に並んでおり、給油をあきらめついでに私を丸高石油さんまで乗っけていってくれました。かなりの距離を歩いてきていたので本当に助かりました。ちなみにツイッターの方ですか?と声をかけてくださる方や、中学時代の親友、お気に入りのバーのママもこの行列に並んでおり、この大変な時の偶然の出会いに感激したのを覚えています。
そしてそのままかじやに戻って仕込み。お昼もスタッフの協力のおかげで無事終了。ツイッターや立て看板をみて、器を持参してお持ち帰りを買いに来てくださる方もいて、本当に嬉しかった。
今日は予定通りであれば家族が臨時便で花巻に帰ってくるはず。でも花巻は結構な雪と風で、もしかすると向こうは離陸しても花巻空港に着陸できないかも、もしそうなったら仙台空港も使えないしどうなるのか、とにかく連絡を待っていなければならず落ち着かない。
そんな中、知り合いの方からこの日「復興支援会議を行うので参加してくれないか」と連絡をいただいていたので、全国的なガソリン不足による物流ストップ、東京などでの日用品買占めによる物資の不足、世の中の自粛ムードなどで、直接津波被害のない花巻も、このままでは町が死んでしまう、商店がどんどんつぶれていってしまうと危機感を持っていた私は、その案内では何をするのかわかりませんでしたが「花巻をなんとかしないと!」という気持ちで参加しました。
場所は高橋博之(当時岩手県議会議員)さんの事務所の隣り。博之さんと、増子義久(花巻市議会議員)さんを中心に、それぞれの支援者(?)の方々合わせて20人程が集まっていました。
博之さんと増子さんの挨拶から会議は始まり、とりあえずみなさん自己紹介を…と、「活動の目的、対象」が語られないまま話が進みだす。おいおい、私は誰のためにどんなことをどういう風にやるのか全く説明もなく呼び出されてここに来たのだ。明日の準備もしなければいけないし、飛行機の到着予定時刻まで微妙だったので、自分が参加すべき活動でなければ、申し訳ないけどできればとっとと帰りたかった。しかし増子さんの話も、なぜか私も当然メンバーの一員であるかのような話しっぷり。「僕はこうしたい、ああしたい、こうありたい、みんなもそうあるべきだ」と、博之さんと二人で岩手の理想の未来像を語るだけで、私には今から一体誰のために何のために何をするのか伝わってこなかった。
私は人の自己紹介の途中で申し訳なかったが、とにかくこの会議、しようとしている活動の目的と対象だけは教えてくれと口をはさんだ。それでやっと増子さんが説明をしてくれたが、聞いてみたら「沿岸被災地の被災者のために、彼らの支援活動を行いたい」とのことだった。たしかにそれは誰かがやらなければいけないことだ。でも私は「今」、自分やかじやのスタッフ、街の商店のみなさんの生活に危機感を感じているのだ。はっきり言ってその時私にはそんな余裕は無かった。自分の事で精一杯だった。私は「花巻の為の復興支援」と思って参加したつもりだったので、この活動には参加しないことにした。
正直、博之さんの話も、増子さんの話も、当時の私には「もともと問題だらけの地域、沿岸部が壊滅した今がチャンスだ、我々の考える理想のいわてを創り上げよう!」と言っているようにしか感じられなかった。「今」私が感じている危機からは程遠い、自分たちの夢を目を輝かせて語る二人、それに感動して賛同するお年寄り達の集まりにしか見えなかった。私は花巻を何とかしてほしかった。
せっかくこうして呼ばれ、集まったのも何かの縁、挨拶して朝のビラ配りで余ったビラを渡したかったということもあったので、そんな気持ちを押し殺してとりあえず会議には最後まで参加した。結局これからどんなことをやっていくのか、どのくらいの規模の活動を行っていくのか、何も決まっていない中「活動団体の名称は何にしよう?」と、和気あいあいと会議している彼らに、その時は協力する気が起きなかったのを覚えている。会議終了後、誘ってくれた方と博之さんには、この活動には参加しないことを伝え、色々な思いを胸に、店に帰りました。
その後家族が無事花巻空港に着いたと連絡があり、かじやにて一週間ぶりの再会。妻や子ども達に会えてホッとしたのもつかの間、社長と奥さんに花巻、そして店の状況を報告。これからの事を話し合い、仕事を分担。妻と子どもと自宅アパートに帰って久々の家族に癒されたのを覚えている。
たしかそんな感じの一日でした。