●私の2011年3月11日:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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私は地震発生時、かじやの昼の営業を終え、スタッフと遅い昼食を取っていました。当時社長と奥さん、そして私の家族は2日程前から京都に旅行に行っており、その日の夕方の便で花巻に帰って来る予定だったので、その日はまだ私が花巻に一人残り、かじやを任されていました。
そして地震発生、これまで震度5強までは経験した事がありましたが、これまで感じた事のないほどの強い揺れ、長く、どんどん揺れも大きくなるので、スタッフに屋外に退避を指示して私も外へ避難しました。後からわかった実際の震度は6でした。
目の前の建物が、まるでプリンみたいにぐわんぐわん揺れて、「あぁ崩れる!」と思いました。何分間揺れ続けたのか、やっと揺れがおさまって気づくと、スタッフの一人が見当たらないので、焦って探すと、裏の駐車場で柵に捕まりしゃがみ込んでいました。
すぐに停電、厨房では一杯だったそば釜のお湯は半分以下になり、棚に重ねていた食器は散乱、鰻のタレが倒れて床に広がっていました。それでも思った程の被害が無かったので、片付けはいいからとスタッフをすぐに帰宅させ、一人片付けを行いました。この時はすぐに停電も復旧すると思っていました。
運悪く携帯の充電も切れる寸前だったので、妻に「生きてます」とだけメール。大阪の伊丹空港でいわて花巻行きの飛行機に乗る直前だった家族も帰って来られなくなりました。
一階の店舗は割と被害は少なかったのですが、二階の社長自宅ではダイニングの食器棚から食器が落ち、廊下の棚からは置物や写真立てが落ちて、その破片が散らばり裸足で歩くのは危険な状態。強い余震が数分おきに襲って来るたび外に避難しながら、とりあえず危険なものだけ片付けて、火の元を確認し、施錠して私のアパートの様子を見に向かいました。
途中で同級生のいる「焼肉レストラン日和佐」さんに立ち寄り情報交換。市民体育館が避難所になったこと、停電の復旧の目処が立っていないことなどを聞き、夜に備えて懐中電灯やろうそくを取りに店に戻りました。辺りは暗くなり始めており、情報に感謝。仏壇のろうそくに火をともし、停電により暗くなった室内で、どこにあるかもわからない懐中電灯を探す。運良く発見し、予備の電池とろうそくを持って再びアパートに向けて出発。日和佐さんにろうそくをお譲りしに再び寄ると、おにぎりだったかカップラーメンだったかパンだったか忘れましたが食料をいただきまた感謝。
アパートは台所がメチャメチャになっており、居間では飼っていた熱帯魚の水槽の水が溢れ水浸しに。とりあえず片付けられるだけ片付け、外はもう暗くなって来ていたので後は明日にと思い、ちょっと一息。相変わらず強い余震が何度も何度も続くので、その度避難したりするのが面倒なので、その日は布団を車に積み込み、かじやの駐車場の真ん中で車中泊をすることにしました。
停電でテレビも映らないので、カーラジオだけが震災の情報を得る唯一の手段。飛び込んでくる「10メートルの大津波!」「沿岸は壊滅です!」の声も、映像がないためなんだか実感もわかず、続く余震に車ごと揺られながら早めに眠りました。
たしかこんな感じの一日でした。