アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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アイヌあての最古の古文書、ロシアで発見


 江戸時代後期の1778(安永7)年に当時の松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書の原本が、ロシアのサンクトペテルブルクに残されていた。東京大史料編纂(へんさん)所などの研究チ−ムの調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。

 

 文書は松前藩の「蝦夷(えぞ)地奉行」から、根室半島先端に近い「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)を拠点としていたアイヌ民族の有力者「ションコ」に宛てたもの。交易に使われる施設の「運上小家」の火の用心に努めよ▽和人の漂流船が漂着した際は、この文書を見せて介抱の上、送り届けよ―など4項目を「定(指示)」とし、背いた者は厳罰に処すとしている。文書は東京大史料編纂所などの研究チ−ム(代表、保谷徹・東京大史料編纂所教授)が2016年10月、ロシア国立サンクトペテルブルク図書館で発見した。松前藩の文書は幕末や明治初期の混乱などでほとんど残っていないため貴重だ。

 

 共同研究者で北海道博物館の東俊佑(あずま・しゅんすけ)学芸主査(近世史)は「原本としては最も古いものとみられる。発見の経緯から、鎖国の時代にアイヌの手から蝦夷地を訪れたロシア人に文書が渡り、それがロシアで見つかったことになる。その点に意義がある」と話している。この文書から11年後の1789年、過酷な労働環境などに不満を持ったアイヌ民族が蜂起し、和人71人を殺害した「クナシリ・メナシの戦い」が発生。弓矢の名人でもあったションコは戦いを終息に導いた一人として、松前藩家老で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)の「夷酋(いしゅう)列像」(12枚)の1枚に描かれている。(11日付「毎日新聞」電子版)=9日付当ブログ『「アイヌ」、そして「ウチナンチュ」ということ…」』参照

 

 

(蠣崎波響が「夷酋列像」で描いたションコの肖像画=フランス・ブザンソン美術考古博物所蔵。同日付毎日新聞から)

 

 

《注;クナシリ・メナシの戦い》〜ウキペデイアなどより

 

 松前藩の『新羅之記録』には、1615(元和元)年から1621(元7年)頃、メナシ地方(現在の北海道梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。1754(宝暦4)年、松前藩家臣の知行地として国後島のほか、択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊(とまり)には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。1788(天明8)年には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始すると、その労働力としてアイヌを雇うようになった。

 

 一方、アイヌの蜂起があった頃、すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784(天明4)年から蝦夷地の調査を行い、1786(天明6)年に得撫島までの千島列島を、最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって、日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。

 

 1789(寛政元)年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり、蜂起した者たちは投降。蜂起の中心となったアイヌは処刑された。この騒動で和人71人が犠牲となった。

 

 知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した『知床日誌』によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣(や)られ、そこで漁師達の慰(なぐさ)み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾(めかけ)にされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。さらに、和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果、文化4年(1804)年に2万3797人と把握された人口が、明治6(1873)年には1万8630人に減ってしまった。

 

 1912(明治45)年5月、根室・納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、砂に埋まっている石が発見された。「横死七十一人之墓」と彫られていた。 現在、この石碑は納沙布岬の傍らに建てられている。建立は文化9(1812)年。碑文には「寛政元年5月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」(現代語訳)と刻まれている。

 

 

 

 

  

 


2018.01.11:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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