「不条理を問い続けた生涯」…李鶴来(イ・ハンネ)さん:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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「不条理を問い続けた生涯」…李鶴来(イ・ハンネ)さん
2021.11.03:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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『李鶴来さん追悼文集〜不条理を問い続けた生涯を偲ぶ〜』と題する大型の冊子が届いた。今年3月28日、96歳の生涯を閉じた元BC級戦犯、李鶴来(イ・ハンネ)さんを偲ぶ追悼集である。李さんは1925年、現在の韓国・全羅南道に生まれ戦時中、日本軍軍属としてタイの捕虜収容所の監視員を務めた。戦後のBC級戦犯裁判において捕虜虐待容疑で死刑判決を受け、その後減刑・仮釈放された。戦後の日本政府の援護制度の下では日本国籍を喪失したという理由で排除された。生涯、その「不条理」を訴え続けた。
追悼文集には在日同胞や海外在住者、取材関係者、若者世代など110人が「名誉回復」に生涯を捧げた李さんに対する思いを寄せた。私もそのひとりで、以下にその全文を掲載する。次期花巻市長選への動きが風雲急を告げる中、現職の数限りない「不条理」を追及する源(みなもと)を与えてくれたのも李さんの「不屈」の精神だと思う。心からの感謝とご冥福を改めてお祈りしたい。
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「輝ける独立を前に希望に躍る朝鮮人諸君、諸君が永い間日本人から圧迫と差別を加へられて来たが、然し今は自由に解放されたのである。…今までの日本人の悪かつた点は許し、互に手を握りあつて平和世界の促進に努めよう。吾々アイヌも亦諸君の本当の友として進みたい」―。李鶴来(イ・ハンネ)さんが旅立った2日後に発行された書籍の一節に虚を突かれた。『「アイヌ新聞」記者 高橋真―反骨孤高の新聞人』(合田一道著)の中の文章である。敗戦翌年の1946年6月10日,在日本朝鮮人聯盟北海道本部が開催した集会で、アイヌ出身の新聞記者、高橋真は高らかにこう宣言した。植民地支配の「不条理」をいち早く見抜いていたのがアイヌ民族だったことに胸を突かれたのだった。
「日本が国として、謝罪しないのなら、私自身が出向いて捕虜たちに直接、頭を下げたい。捕虜を虐待したという点では、私たちBC級戦犯にも加害の責任ある」―。ちょうど30年前の1991年、私はオ−ストラリアへの“謝罪の旅”に赴(おもむ)く李さんに同行取材した。映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬(たいめん)鉄道(タイ〜ミャンマ−間)の工事現場で、李さんは“日本軍”軍属として、連合国軍の捕虜監視に当たった。その多くがオ−ストラリア人捕虜だった。「ノ−モア・ヒントク、ノ−モア・ウォ−」―。李さんは最大の難所だった現場の地名「ヒントク」を刻んだ時計を当時の捕虜の代表に贈った。「心の区切りを付けるのに半世紀近くもかかってしまった」とその時、李さんの口からふ〜っとひとり言のようにもれた言葉がまだ、脳裏にこびりついている。
「戦争責任を肩代わりさせられたうえ、戦犯の烙印を押すという不条理が許されるのか。さらには祖国から注がれる対日協力者という厳しい目…」―。本来なら、植民地支配の“被害者”であるはずの李さん自らが“加害者”として、かつての敵国に赴くという視座の逆転。まぎれもなく「加害」の立場に身を置く日本人の私は揺れ動く気持ちに抗(あらが)いながら、その場の光景を写真に収めたことを覚えている。この不条理の瞬間を無意識のうちに「記憶」の底に刻み込もうとしていたのかもしれない。辛うじて「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)から逃れた李さんは終生、この「不条理」という言葉を口にした。
「日本政府は私たち元戦犯を都合の良い時は“日本人”、悪い時は“朝鮮人”として扱った」―。戦後の援護政策から排除されるという究極の「人権侵害」を語る時、ふだんは温厚な李さんに怒りの表情がにじんだことを私は忘れない。元アイヌ新聞記者(高橋真)と元韓国人BC級戦犯(李鶴来)―。この二人の人物との邂逅(かいこう)がなかったなら、齢(よわい)81歳という軟弱な男はとっくの昔にこけていたにちがいない。この世の不条理にブツブツと悪態をつきながら、もう少し生きてみたいと思う。被差別の内奥を生き抜いた先達たちに心からの感謝を捧げつつ…。
(写真はありし日の李さん=インタ−ネット上に公開の写真から)