現人神と政教分離…そして、狂気の笑い:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ |
現人神と政教分離…そして、狂気の笑い
2019.12.01:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
▼この記事へのコメントはこちら
|
ゲストさんようこそ
合計 40人
■記事数
公開 3,361件
限定公開 0件 合計 3,361件 ■アクセス数
今日 544件
昨日 18,690件 合計 18,163,607件 |
「大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する」(明治憲法第1条=明治22年2月11日公布)―。わが宰相の「天皇陛下万歳」と21発の祝砲で始まった大嘗祭(だいじょうさい)を含む一連の天皇の代替わりの儀式を見ながら、いままた「現人神」(あらひとがみ)が目の前に降り立ったような錯覚を覚えた。現憲法の改正を待たずして、この国はすでに「天皇は、神聖であって、侵してはならない」(同第3条)という“天皇制”国家に先祖返りしたのではないのか…と。その神格化はまるで、得体の知れない「鵺」(ぬえ)のように足元に忍び寄りつつある。
「奉祝 令和 天皇陛下御即位/新しい御代(みよ)をお祝いしましょう」―と染め抜かれたのぼりが風にひらひら揺れていた。先月11月23日、花巻市の旧石鳥谷町内の神社には奉祝の長い列ができていた。かつて、「新嘗祭」(にいなめさい)と呼ばれたこの宮中行事は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)などすべての神々に新穀を供え、その恵みによって収穫を得たことに感謝する祭である。国民の祝日に関する法律(昭和23年)の施行によって、現在は「勤労感謝の日」(祝祭日)に指定されている。今回のように新天皇の即位後、最初に行われる儀式はとくに「大嘗祭」と呼ばれるということを初めて知った。
その前日、私はこんな風潮に不安を覚える文章を書き記した(11月22日付当ブログ「神話崩しの時代」参照)。その直後、上田東一市長がこの行事に「公務」として出席することをHPで知った。さっそく、担当部署に経緯をただした。「祭儀にのみの出席。地域行事と認識しているので、公務としての位置づけで何ら問題はない」。今年8月、別の神社の神職昇進を祝う会にも上田市長の姿があった。私は当選直後の平成23年12月定例会で、各種神事が終わった後に行われる宴会―「神社直会(なおらい)」に対し、市長交際費が支出されていることについて、「政教分離」の観点から見解をただした。憲法判断は分かれていたが、当局側は今後この種の支出を“自粛”することを表明した。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」―。憲法第20条は「政教分離」原則について、こう定めている。「令和」改元以降、この条文もほとんど死文化したかのようである。
「われらを毀損(きそん)してくるものを、倍返しで冒涜(ぼうとく)せよ」―。作家、辺見庸さんの最新作『純粋な幸福』の帯にはこんな過激な文字が躍っている。その詩篇「グラスホッパ−」の中の一節…「世界の実相は気鬱(きうつ=気がふさいで晴れ晴れしないこと)にみちている。それなのに、老いも若きも総理大臣も天皇も、そうでないふりをしている。まるで、たるんだ尻(けつ)みたいな顔して。気鬱をはらうには怒り狂うより他にはない。狂気といわれようが、怒気をあらわにしてなに悪かろう」―。私が前掲ブログをアップした同じ日、辺見さんは新著に関するインタビュ−でこうも語っている。
「表現がこれほど萎縮、収縮した時代はない。新聞を読めば活字が寝ていて、悲しみや憤りを屹立(きつりつ)させようというパッションがない。怒鳴りつける代わりに笑う。もう笑うしかないという内面の嘲笑によって冒涜したい」(11月22日付「岩手日報」)―。そういえば、話題の映画「ジョ−カ−」(11月2日付当ブログ「即位礼と啄木、そして“ジョ−カ−”の登場」参照)の主人公―殺人鬼、ア−サ−・フレックの持病は「笑い」病である。医学的には「情動調節障害」というらしいが、この悪役を演じる名優、ホアキン・フェニックスが犯罪をおかす前後に発する狂ったような「笑い声」がまだ、頭蓋の奥でこだましている。
『悲しすぎて笑う』(1985年)というタイトルの本が私の書棚の片隅に置かれている。表紙は茶色に変色しかけ、「女座長筑紫美主子(ちくしみすこ)の半生」という副題も判読しにくくなっている。ロシア革命で日本に亡命した白系ロシア人と日本人との間に生まれた美主子(1921―2013年)は九州・佐賀地方に伝わる漫才「佐賀にわか」を身に付け、女座長にまで上り詰めた。しかし、「青い目」の漫才師は絶えず、差別の目にもさらされ続けた。そんな半生をこの本にまとめた詩人の森崎和江さん(92)がある時、私に語った言葉をふいに思い出した。「悲しみの極にはもう、笑いしか残されていないということだと思う」
「富者の天国は貧者の地獄である」―。今年春、日本の主要都市で「笑う男」と題するミュ−ジカルが上演された。『レ・ミゼラブル』などで知られるヴィクトル・ユ−ゴ−の同名の小説が原作で、17世紀の英国が舞台。腐敗した貴族社会を風刺する内容で、見世物にするために“笑い顔”に口を整形された道化役者が主人公として登場する。元祖「ジョ−カ−」である。
笑う男もジョ−カ−も、そして美主子もともに道化役者として、この世を生きた。たとえ、それが敗者の高笑いだったとしても、道化を演じながら狂い笑いするしかない…そんな時代を私たちはいま、生きているのだろうか―。
(写真は時と場所とをかまわず、発作的に狂い笑いする殺人鬼・ア−サ−=インタ−ネット上の公開の写真から)