「老い」の3部作…その「かたち」と「味わい」と「ゆくえ」と:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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「老い」の3部作…その「かたち」と「味わい」と「ゆくえ」と


 

 つい、旬日前の“青春賛歌”の余韻(11月13日付当ブログ「ああ、青春よ」参照)がまだ、続いているような不思議な感覚を覚えている。作家、黒井千次さん(87)の「老い」の3部作(中公新書)を読み進むうちに、青春ならぬ“老いの息吹き”を感じたせいかもしれない。読売新聞夕刊の人気コラム「時のかくれん坊」を書籍化したもので、『老いのかたち』(2010年)、『老いの味わい』(2014年)、『老いのゆくえ』(2019年)と刊行が相次ぎ、健筆はまだ続いている。連載が産声を上げたのは2005年5月27日、筆者が72歳の時だから、足掛け15年に及ぶ「老いの実況放送」(読者の声)である。

 

 「この人は老いを満喫しているのではないか」―。8歳年下の私は老作家の背中を追走しながら、そんな思いを強くした。たとえば、こんな文章に出くわす。「病が相対的な状況であるとしたら、老いは絶対的な状態であるといわねばならぬ。病には、病気の過去を否定する意味での快気祝いがあるが、老いにはむしろ重なり続ける年齢を肯定する長寿の祝いしかない。だから、老病人はせめて病気を乗り越えて元気に歩ける老人に戻らねばなるまい。そうでなければ、折角与えられた機会なのに、老いとはいかなるものかを味わう僥倖(ぎょうこう)を失ってしまうからである」(第1部)―。己の老いを突き放して観察する「若さ」がここには感じられる。さて、わが身はというと…

 

 私が市議会議員に初当選したのはちょうど、70歳の時である。この達意の文章について、哲学者の柄谷行人さんは「老いの問題を、広く歴史的・社会的に見る観点、あるいは、セネカ(古代ロ−マの政治家で哲学者)のような哲学的考察があった」(7月27日付「朝日新聞」)と書いている。こんな理屈っぽい話ではなく、私の出馬の動機は「若気の至り」を逆手に取ってやろうという“奇矯”(ききょう)が先に立っていたような気がする。つまりはこの神聖な制度を利用して、わが”老化度”を測定してみようという魂胆である。「歳の割には老けてないな」という自己判定にまんざらでもなかった。2期8年間の議員生活にピリオドを打った78歳の時に転機が訪れた。妻の死である。同じ年齢のころの黒井さんは、こんな老いを味わっている。「物忘れ」についての文章である。

 

 「歳を取る、と一口にいうけれど、それには様々の段階があるらしい。人の名前や土地の呼び名などを忘れて思い出せないのはもう当たり前のことであり、八十に近い同年配者の間では、物忘れは最早(もはや)話題にもならない。…しかし時によっては、自分が何を忘れ、何を思い出そうとしていたか、その内容自体を忘れて見失ってしまうこともある。何かを思い出そうとしていた、という前屈(かが)みの姿勢の余韻だけが身の内に残っているのに、それがどんなものであったかが霧の中にぼやけてしまっている」(第2部)―。私が「物忘れ」症候群の恐ろしさを思い知らされたのは妻と死別した後のことである。

 

 老いの「ゆくえ」を追い求める第3部にこんな記述がある。「独りで家を出ることになるので玄関の鍵をかけることを決して忘れるなと家族に言われ、誰もいなくなる家の玄関ドアに鍵をかけてから門扉までの二、三歩を進むうちに、本当に鍵をかけたかどうかがわからなくなっている。心配なので引き返して確かめると、鍵はしっかりかけられている」―。鍵だけではなく、ガスコンロの消し忘れなど私自身もしょっちゅう、危ない思いを経験している。私の周辺には連れ合いなど注意を喚起してくれる存在がいないだけに事はより深刻である。さらには妻との二人三脚の人生を総括しようにも、その記憶が断絶することさえしばしばある。

 

 「物忘れ」は老いの宿命とはいえ、妻の死は一方で「思い出す」ことの大切さとそのエネルギ−を授けてくれたのではないか、とそんな殊勝な気持ちになることもある。ともあれ、これから先も七転八倒を繰り返しながら「男やもめのゆくえ」を手探りするしかあるまいと思っている。ふと見上げると、霊峰・早池峰はもう白雪をいただいている。この山容は永遠に変わることはないのだろう。そうか、神は老いないということなのか…と妙な感慨にふけりながら、「老いとは一体、何なのか」を考える日々―

 

 それにしても「老いの達人」とはそもそも老いを知らない人、いや老いというものを鼻先で笑い飛ばすことができる豪胆(ごうたん)の持主を指すものらしい。老作家のこんな言葉に私はたじたじとなってしまう。「歳を重ね、自分が今や老人となったことは認めざるを得ない。しかし、どの程度の老人であるかを判定するのは難しい。…つまり、自分の現在の気持ちと、客観的な時間の推移とがずれてしまっている。自分の年齢にリアリティ−がない。他人と比べたり、自分の過去の身近さを呼び寄せたりして違和感ばかりを覚えるのだとしたら、なによりそのこと自体が老化の著しい進行を示しているかもしれないのだが―」(第3部)

 

 

 

(写真は話題沸騰の「老い」の3部作)

 

 


2019.11.17:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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