『貝に続く場所にて』…“幽霊”たちとの対話〜その足元では“戦前回帰”のお祭り騒ぎ:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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『貝に続く場所にて』…“幽霊”たちとの対話〜その足元では“戦前回帰”のお祭り騒ぎ
2021.07.18:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
まるで、先の大戦を思い出させるような光景
かつての出征風景―全国どこでも繰り広げられた
まるで「祈 武運長久」の亡霊みたいな
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「あくまである記憶、体験をめぐる『惑星』のようなものだと考えています」(7月14日付当ブログ参照)―。第165回芥川賞に輝いた石沢麻衣さん(41)が受賞インタビュ−で口にした、このナゾめいた言葉がまだ頭の中をグルグル回っている。さっそく、受賞作の『貝に続く場所にて』(講談社)を取り寄せて、活字を追い始めたのだが…。「時空間と記憶」をめぐる物語にはちがいない―と読み進むうちにその圧倒的な質量感に打ちのめされてしまった。コロナ禍下での“五輪狂騒曲”と記録破りの猛暑のせいばかりではないような気がする。ひょっとしたら、こうした記憶の「物語世界」に私自身の思考がついていけないほど想像力が枯渇しつつあるのではないのか…
東日本大震災で被災した「私」(筆者)は現在、ドイツ・ゲッティンゲンにある大学院で西洋美術史を学んでいる。このまちには太陽系の縮尺模型を形どった「惑星の小径(こみち)」と名づけられたオブジェが配置されている。留学先で知り合ったドイツ人の知人らとこの小径を散策しながら、物語は進行していく。そんなある日、仙台市内の大学の同級生だった「野宮」が突然、「私」の元を訪ねてくる。野宮はあの大震災で行方不明となり、今もって生死は分かっていない…つまりは“幽霊”として登場する。やがて、この人物にだけ敬称が付された「寺田氏」もいつの間にかその仲間入りをしている。この不思議な邂逅(かいこう)を「私」はこう記す。
「自然災害、特に地震考に見られる観察と分析に基づく透徹した眼差しや、専門知識で汲み上げようとする問題の取り組み方に触れる度に、あの日の記憶は小さく揺さぶられ続ける。同時にそれは、災害に相対する人間を見据える眼差しでもあった。時間を貫くその声は、信頼できる遠近法に則って、遠くまで道標を作り上げていた。…その本は、いつの間にか誰かの手を真似た幽霊のような姿をとるようになっていた」―。もうひとりの“幽霊”の出現である。文中の「寺田氏」こそが『天災と国防』などの著書で知られる物理学者の寺田寅彦(1878〜1935年)その人。1910年10月から約4か月間、ゲッティンゲンに滞在し、この地を日本語で「月沈原」と呼んだ。時空間を一気に貫くような透徹した命名である。
コロナ禍の猛威にさらされたドイツでも人と人との距離は人為的に引き離されていく。しかし、「距離と時間」は遠ざけようとすればするほど、ブ−メランのようにも元居た場所へと戻ってくる。「惑星の小径」を行く道連れたちはふと、足元の金属板に足を取られる。このまちから強制収容所に送られたユダヤ人たちの「記憶」が刻まれた“躓(つまず)きの石”たちである。「メメント・モリ」(死者を想え)―。その先には中世ヨ−ロッパを恐怖のどん底に突き落としたペスト禍の記憶の古層がうず高く積み重なっている。「寺田氏」に導かれるようにしてやっと「野宮」との記憶の軌跡を紡ぎ直すことができた「私」はこう述懐する。
「私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。その時に、忘却が始まってしまうことになる。野宮が見つからないまま、時間だけは過ぎていった。私が訪ねた場所を歩いた足も、景色を映した眼も、潮の香りを捉えた鼻も、感覚的な記憶として留まらず、遠い物語的な記憶へと変容してゆく。…記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。その輪郭を指でなぞって確かめて、野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた」―
「あの大震災の時、自分はどうしていたのか」―。ハタと我に返った。奇しくもその日が誕生日に当たっていた「2011年3月11日午後2時46分」…私は現職の市議として、開会中の予算特別委員会に出席していた。ドス−ンという突き上げるような衝撃で、慌てて議席の下に潜り込んだ。委員会は急きょ閉会になり、急いでわが家に戻った。家電類や本棚などが倒れた程度で家に被害はなかった。その同じ時間帯、沿岸の大槌町に住む「照さん」はまちの中心部から15キロほど離れた高台で土木作業をしていた。取って返したが、自宅は跡形もなく流され、母親(当時80歳)と妻(55歳)、一人娘(33)の姿もなかった。
当時、62歳の白銀照男さんと出会ったのは震災1週間後のこと。肉親を求めて、瓦礫の山をさまよい歩く照さんに何度も同行した。3人はまだ見つかっていない。統計上では生死不明の「行方不明者」にくくられるが、「十年一昔」は私自身の忘却も容赦しない。もうしばらく、連絡も取っていない。照さんはある日、ひとり言のようにつぶやいた。「もうダメだという絶望感と生きていてくれという祈り。時は無情だなと思ったり、すべてを解決してくれるのはやはり時間しかないと思ったり…」―あの時からもうすでに10年以上の時空間がたっている。「私」が「野宮」を探し続けたように、照さんももはや“幽霊”に姿を変えているかもしれない3人との対話を続けるしかない。そして、まるで「求道者」とも呼ぶべき照さんの姿かたちを私はもう一度、記憶の底に刻み直したいと思う。
(写真は肉親を探し求める照さん=2011年3月下旬、岩手県大槌町安渡で)
《追記》〜「3・11」を忘れた末の“戦前回帰”―ファシスト国「イ−ハト−ブ」の出現か!?(コメント欄に記事と関連写真を掲載)
「英輝選手へ古里エ−ル/両親に寄せ書き手渡す…花巻で住民が激励会」―。7月19日付の地元紙「岩手日報」の社会面に踊る大見出しに身がすくんだ。花巻北高出身の競歩選手、高橋英輝さんが五輪選手に選ばれたことを喜ぶ記事で、地域住民や陸上部の後輩やOBらが日の丸(日章旗)に激励の寄せ書きをしたため、両親とともに写真に収まっていた。当然のことながら、五輪代表を祝福する気持ちに変わりはない。と同時に私の耳元には母親が嗚咽(おえつ)をこらえながら、口にした言葉がよみがえった。「父さんはね、隣組の人たちが振る日の丸の旗で戦地へ送られたけど、戻ってきたのはお骨(こつ)ではなく、たった一本の小枝だけ。骨箱の中でコロンコロンと音を立てて…」
“復興五輪”を騙(かた)った「2020東京五輪」の開幕まであと3日。その狂気に満ちた祝祭騒動はついに、郷土の詩人・宮沢賢治が理想を託した夢の国「イ−ハト−ブ」の足元にまで及んだ。この日は市役所で懸垂幕の受領式が行われ、さっそく正面玄関わきの本庁舎に吊るされた。「勝ってくるぞと勇ましく…」(昭和12年、古関裕而作曲「露営の歌」)…悪夢を呼び戻すような歌が耳元をかすめた。ちなみに、当ブログで言及したドイツの「躓(つまず)きの石」プロジェクトは1993年、ファシズム(ナチス)の悲劇を現代に伝えるためにスタ−ト。タテ・ヨコ・タカサが各10センチのコンクリート製で、上張りされた真鍮(しんちゅう)板には、例えばこんな文字が刻まれている。「ここで勉強していたヘドヴィッヒ・クライン(1911年生まれ)は1939年にインドに亡命しようとしたが失敗し、1942年に国外退去させられ、アウシュヴィッツにて殺された」―
そういえば、わが「イーハトーブ」のトップに君臨するのは「Mr.PO」(パワハラ&ワンマン)とも称される独裁者である。