コロナ神との対話…“巣ごもり”やもめのひとり言、そして「メメント・モリ」:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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コロナ神との対話…“巣ごもり”やもめのひとり言、そして「メメント・モリ」


 

 「ミジンコって、漢字では微塵子。チリみたいに吹けば飛ぶようなやつだけど、顕微鏡でのぞいてみると、いのちが透けて見えるんだよな」―。電子顕微鏡で拡大されたコロナウイルスの写真を見ているうちに、ミジンコ研究者でもあるサックス奏者の畏友(いゆう)、坂田明さん(75)の言葉をふいに思い出した。30年前、動物行動学者の日高敏隆さん(故人)との共著『ミジンコの都合』の出版記念会の席上だったと思う。坂田さんはこう続けた。「ミジンコに限らず、せっかくこの地球に生まれたんだから、生きとし生けるものはそれぞれの『都合』で楽しく生きる権利がある。人間の都合だけじゃダメだってこと」

 

 東日本大震災から10年目を迎えた今年、世界中がコロナ危機の渦中に投げ出されている。「人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろう」(3月30日付当ブログ参照)―。カミュが『ペスト』で予言的に語った「不条理の哲学」が輪郭を伴って、目の前に去来する。この不気味な因果律にめまいを覚える。

 

 「コロナ大戦争」―。いま、人類はこの未知なる「ウイルス」を撃退するための全面戦争に突入したかに見える。人間の都合だけを優先させた「優勝劣敗」思考が相変わらず、支配している。「これじゃ、敵だって、つまりコロナだってたまったもんじゃない。反撃に出るしかないよな」―。坂田さんにそそのかされながら「ウイルスの都合」について考えて見ると、コロナ鬱(うつ)が少しずつ薄らいできた。たまたま見た、NHKEテレの特集「パンデミックが変える世界」(4月4日放映)で、「文明こそが感染症の揺りかごだ」という発言があった。地球規模の環境破壊によって、野生生物の生態系が破壊された結果、行き場を失ったウイルスが「宿主」(しゅくしゅ=寄生先)を人間に求めるようになった。その通りだと思ったとたん、アイヌ民族の説話がふと頭によみがえった。

 

 「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」―。当ブログで以前にも引用したことがあるが、アイヌ文学の「ウエペケレ」(昔話)によく出てくる表現で、「天から役割なしに降ろされたものはひとつもない」という意味である。アイヌ民族は森羅万象(しんらばんしょう)にはすべて何がしかの「役割」が担(にな)わされていると考え、だからこそ、自然界全体を「カムイ」(神)として敬(うやま)った。そのひとつに「パヨカカムイ」がある。アイヌ語訳すると「パヨカ(歩く)・カムイ(神)」となり、「病気の神」を称して、こう呼んだ。

 

 地球せましと徘徊するこの神の神出鬼没ぶりを見ていると、それはまさに「コロナカムイ」と呼ぶにふさわしいとさえ思えてくる。3月26日付当ブログ「追記―1」で言及したように「文明」に接触する機会が少なく、免疫力が低かった先住民族にまずこの種の感染症は襲いかかった。長いひげをたくわえたエカシ(長老)の言葉がまだ、頭にこびりついている。「アイヌは人間の力の及ばないものはすべてカムイだと信じてきた。だから、コタン(集落)を全滅の危機におとしいれる『病気』もれっきとしたカムイなのさ。病気の神さまも自分の役割を果たすのに必死なんだよ。病気をまき散らすためにせっせと歩き回るから、いつも腹をすかせていてな。で、この時の魔除けにもいろいろあるわけさ」

 

 かつて、アイヌ民族にとっての大敵は「疱瘡(ほうそう)=天然痘」だった。流行の兆しがある時には「どうか私たちのコタンには近づかないで…。これでお腹を満たしてください」と家々から持ち寄った穀物などを火の神(アペフチカムイ)を通じて届けたり、コタンの入り口に匂いの激しいヨモギの草人形を立てたりして、この病気の退散を願った。こんな言い伝えを口にしながら、エカシはニヤッと笑って言った。「でもな、実際にパヨカカムイに取りつかれた時にどうするかだ。薬だけで治ると思ったら、大間違い。病気の神さまとも仲良く付き合うことが大事なのさ」

 

 「やっつけることはできないが、付き合うことはできる」―。コロナウイルスに関する情報発信サイトを立ち上げている京都大学IPS細胞研究所長の山中伸弥教授もアイヌのエカシと同じようなことを口にしている。考えて見れば、当然のことではある。「ウイルスにも生きていく権利があろうというもの。相手の都合にも思いを及ばさなければ…」―。こう考えれば、少しは気が楽になる。

 

 緊急事態宣言、オ−バ−シュ−ト(爆発的な患者増)、クラスタ−(感染者集団)、ロックダウン(都市封鎖)…。悲鳴や絶叫が絶えることなく、耳奥でこだましている。思わず、耳に栓(せん)をしたくなる。発熱基準の”デッドライン”とされる「37・5度」…この数値もしょせんは人間の都合による設定だが、とりあえず朝起きがけに体温計をわきに差し込む。ピッ、ピッ―「36・2度」という数値にひとまず安心し、コロナカムイに語りかける。「コロナ神よ、このわしを訪ねる用事がある時には呼び鈴を押すなり、コツコツとノックをしてくれよな。突然の来訪じゃ、こっちもびっくりしてしまうから」

 

 東日本大震災(3・11)の際も「価値観の転換」ということが叫ばれた。「10年ひと昔」のいま、私たち人類はまるであの災厄がなかったかのように、新たなる「未知なる敵」に立ち向かおうとしている。老い先が短い私はせめてもの“罪滅ぼし”のため、これからもコロナカムイとの対話を続けていきたいと思っている。「勝つと思うな、思えば負けよ」―。かつて、美空ひばりが歌った名曲「柔」(やわら)が突然、聞こえ始めた。そういえば、「鬼神を敬して、これを遠ざく」(「論語」)―という諺(ことわざ)もあったよなぁ…。「人間はあくまで人間の次元において判断し、行動すること。他方、鬼神には尊崇の念をもちながらも、あくまで人間を超えた存在として扱うこと。この二つを截然(せつぜん)と分かつのが知である」(孔子)―ものの本にはこう解説してあった。

 

 

負けるが勝ちよ!?

 

 

 

(「メメント・モリ」についてはコメント欄をご参照ください)

 

 

(写真は新型コロナウイルスの彩色イメージ図=インタ−ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》〜国家超えた連帯の好機(社会学者、大澤真幸さんからのメッセ−ジ)

 

 「未知の感染症は野生動物が主な宿主です。世界中の原生林が伐採され、都市化された結果、野生動物との接触機会が増え、病原体をうつされるリスクも高まった。英国の環境学者ケイト・ジョ−ンズは『野生動物から人間への病気の感染は、人類の経済成長の隠れたコストだ』と指摘しています」

 

 「『人新世(じんしんせい)』という言葉がある。人類の活動が地球環境を変える時代が訪れた、という意味です。人類の力が自然に対して強すぎるため、気候変動で大災害が頻発する。それにより私たちはかえって、自然への自分たちの無力を思い知らされる逆説が生じている。今回のパンデミックも、私たちが自然の隅々まで開発の手を広げたことで、未知の病原体という『自然』から手ひどい逆襲を受けている。両者は同種の問題です」

 

  「今回のパンデミックが終息したとしても、新たな未知の感染症が発生し、広がるリスクは常にある。日常生活の背後に『人類レベルの危機』がいつ忍び寄るか分からないことを、私たちは知ってしまった。それが私たち自身の政治的選択や行動に大きな影響を与えるかもしれません」

 

 「人間は『まだなんとかなる』と思っているうちは、従来の行動パタ−ンを破れない。破局へのリアリティ−が高まり、絶望的と思える時にこそ、思い切ったことができる。この苦境を好機に変えなくては、と強く思います」

 

(4月8日付「朝日新聞」オピニオン欄から=要旨)

 

 

 

 

 

 


2020.04.05:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
「メメント・モリ」―死を忘るなかれ!

 ルネサンス期のオランダ人画家、ピーテル・ブリューゲルは14世紀にヨーロッパ全土を襲ったペスト禍の光景を「死の勝利」という油彩画に残した。ラテン語の「メメント・モリ」という警句の語源とされる=インターネット上に公開の写真から

2020.04.05 [修正 | 削除]
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