即位礼と啄木、そして“ジョ−カ−”の登場:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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即位礼と啄木、そして“ジョ−カ−”の登場
2019.11.02:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
殺人鬼”ジョーカー”の登場
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「天皇陛下万歳」という発声と21発の祝砲―。「即位礼正殿の儀」(10月22日)の光景をテレビで見ながら、ふいに“狂気”の予感のようなものが体を貫いたように思った。その前日、公開されたばかりの米国映画「ジョ−カ−」(トッド・フィリップス監督)を見たせいかもしれない。「ふんわりと進んだ代替わり/消費される天皇制」(22日付朝日新聞)という見出しが新聞におどっていた。まるで祝祭儀のように粛々(しゅくしゅく)と営まれた「令和天皇制」への移行は一方で、“ジョ−カ−”の出現をいつか許してしまうような「終わりの始まり」ではないのか、とそんな気がしたのである。
時はさかのぼり、明治天皇(1852―1912年)の暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら12人が死刑に処せられた「大逆事件」(1910年5月〜)の直後、石川啄木は『時代閉塞の現状―強権、純粋自然主義の最後および明日の考察』の中に以下のように書き付けた。100年以上も前の啄木のこのメッセ−ジは日本やアメリカだけではなく、世界の現状を射抜いて余すところがない。
「我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日明白になっていることによって知ることができる。…そうしてまた我々の一部は、『未来』を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧(かいこ)がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇(そうぐう)した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾(いかん)なくその美しさを発揮しているかを」
「かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注(けいちゅう)しなければならぬのである」
いささか長い引用になったが、啄木のこの予言が名優、ホアキン・フェニックが演じる殺人鬼“ジョ−カ−”として、私たちの目の前にいま立ち現れたのではないのか―。夢想、いや妄想と言われれば、あるいはその通りかもしれない。しかし、その一方で私の脳裏には今次の台風襲来に際し、一部の自治体が避難所へのホ−ムレスの受け入れを拒否したというニュ−スが去来して離れない。そう、「天皇制」という制度はかつて、“非国民”という名の疎外者を内に抱え込むことによって、その権威を維持してきたことはすでに歴史が証明するところである。そして、装いを新たにした「令和天皇制」とそれを演出した政治の側も実はこの種の「外部」に支えられることによって、初めて成立するものなのであろう。そんな思いに私はとらわれていた。
ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した「ジョ−カ−」は実に不気味な映画である。笑いを振りまくことを生きがいにしていた善人の道化師がいつしか、無差別殺人を繰り返す狂気のカリスマに変貌していく…。何が主人公のア−サ−・フレックをそうさせたのか。現在のアメリカ社会が抱える貧富の格差や弱者への迫害などが背景に描かれているが、ア−サ−の狂気はそれだけでは到底説明することはできない。米国での公開時には不測の事態に備えて、警察や軍隊が警戒に当たったといういわくつきの作品である。評価が真っ二つに分かれる所以(ゆえん)である。
「狂っているのは自分か、それとも世界か」とア−サ−がつぶやく場面がある。その両方だと私は思う。善と悪を超えた地平線上にオ−ロラのように現れた、もうひとりの人間像がぼっ〜とかすんで見えるような気がする。ひょっとすると、それは「内なる狂気」を意識する自分自身なのかもしれない。啄木の時代閉塞感とまるで平安絵巻でも見るような令和の代替わり、そして史上最強のヴィラン(悪役)となった“ジョ−カ−”の登場……。この三様の光景が頭の中をぐるぐると回っている。一体、何故なのか!?映画館に二度足を運んだが、このナゾを私はまだ、解けないでいる。
沖縄文化の象徴―首里城が炎上・焼失した。琉球処分や沖縄戦などの受難史を刻み込んだ歴史の喪失…。時代が抹殺されるようなそんな世紀末の光景を、私の混乱した頭は思い浮かべている。余りにもせっかちな思い込みであろうか―
(写真は玉座「高御座」(たかみくら)に立つ天皇陛下に向かって、万歳三唱をする安倍晋三首相と祝砲を放つ自衛隊の祝砲部隊=10月22日午後、皇居で。インタ−ネット上に公開の写真より)