上杉文華館「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」:置賜の宝発掘プロジェクト(仮称)
置賜文化フォーラム |
上杉文華館「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」
2018.07.26:Copyright (C) 伝国の杜 情報BLOG
|
ゲストさんようこそ
合計 63人
■記事数
公開 2,397件
限定公開 0件 合計 2,397件 ■アクセス数
今日 1,501件
昨日 3,123件 合計 11,372,815件 |
2018年度の上杉文華館は、「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」をテーマに国宝を中心としたゆかりの文化財、貴重な史料をご覧いただきたいと思います。
【展示期間】平成30年7月26日(木)〜8月21日(火)
《第5回 上杉斉定の孝行心》
国宝上杉家文書の近世文書には上杉鷹山周辺の多くの内政文書が含まれています。今回の文書は、一〇代藩主治広と若殿様(のちの一一代藩主斉定)のそば近くに仕える江戸と米沢の藩士間のやりとりで、鷹山をとりまく家族たちの日常を垣間見ることができます。紹介する書状三通は、すべて米沢の莅戸九郎兵衛政以に宛てて江戸の大石左膳綱豊と須田多仲満丈が連名で送った連署状です。
いずれも幼い斉定の孝行心を綴っています。一〇代藩主上杉治広の後継者は鷹山の長男顕孝でしたが、藩主になることなく亡くなり、治広の男子も早世したため、治広の長女三姫に一族の男子斉定(八代藩主上杉重定の孫)を婿養子として迎え相続させることになったのです。
宛先の莅戸九郎兵衛、差出の大石左膳、須田多仲は通称とされる通り名で、一族に何人かいます。莅戸九郎兵衛は、鷹山の片腕として藩政改革を主導した莅戸善政の嫡男政以です。政以は顕孝の傅役でしたが、寛政六年(一七九四)正月五日に顕孝が亡くなると、その年の六月二八日に斉定の傅役を命じられました。侍組の大石綱豊は、天明八年(一七八八)から治広の小姓頭を務めていました。須田満丈も侍組で、寛政六年四月二一日に小姓頭を命じられました。先輩である大石綱豊が上席と考えられ、連署状でも後に署名また花押を据えています。資料名は上位の大石綱豊からとっています。莅戸政以と大石綱豊は、最終的に米沢藩奉公職(国家老)を務め千石を賜い、政治の中心を担いました。須田満丈は小国役屋将となりました。鷹山の藩政改革に反対した七家騒動の首謀者の一人で切腹した須田満主は同族ですが、江戸時代以前に分かれたそれぞれの子孫です。
同月同日付の莅戸九郎兵衛政以に宛大石左膳綱豊・須田多仲満丈連署状で、同内容ですが、通称で花押のない連名のものは、下位の須田多仲が莅戸九郎兵衛に送った略式のものと考えられ、詳細は奉状に調えるとあります。文章も「頓首」で終わり、宛先も「様」となっています。これに対し、実名で書かれた方は花押があり、「恐々謹言」で終わり、宛先は「殿」となっていることから、上位の大石綱豊が綴った正式のものと考えられます。
歯痛に苦しむ鷹山が、頬を腫らしながらも八代藩主であった大殿様重定に会いに行くのを心配した幼い若殿様斉定が、袖に取りすがって泣き、鷹山の帰館まで寝ずに待ち、「御帰り触れ」の声に安堵して喜んだ、といった斉定の振る舞いとともに、鷹山の日頃の教育の賜物と称賛しています。
また、織田信長が謙信に贈った狩野永徳の「上杉本洛中洛外図屏風」は、複製(1作目=複製A)の展示となります。
▼ コレクショントーク
平成30年8月5日(日)
14:00〜
場所: 常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238−26−8001