最上義光歴史館/「家親は二男か!?三男か!?」 伊藤清郎
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
「家親は二男か!?三男か!?」 伊藤清郎
家親は二男か!?三男か!?
この度、最上義光歴史館が『三部抄』写本を購入した(『山形新聞』2016年8月26日記事参照)。『三部抄』は、鎌倉時代前期の歌人藤原定家(1162〜1241)が書いた歌道の参考書で、数多くの写本が作られた。この『三部抄』写本には二箇所に奥書があり、一つ目のものは「詠歌之大概」「秀歌之躰大略」の末尾に記され(�)、二つ目は残る三つ「未来記」「雨中吟十七首」「百人一首」を含む一番最後の所に記されている(�)。
奥書�
奥書�
奥書�には「此詠歌大概者、最上之御本所義光御三男家親、頃風雅御執心之由及承、染老筆奉贈者也 慶長元年十二月廿六日 七十三歳紹巴(花押)」とあり、慶長元年(1596)紹巴73歳の時に書かれた。奥書�には「右三部抄紹巴法眼墨跡之奥染愚筆畢、小野忠明近年依連歌執心、従山形家親朝臣頻所望云々、此度上洛之次一覧之間、加判形者也 慶長十年卯月下旬 素雪斎玄仍(花押)」とあり、慶長10年(1605)に紹巴の長男玄仍が書いた。この奥書は『山形市史』史料編1(1973年)でも既に紹介されている(303頁)。
ただここで、従来から諸説のあった家親・義親兄弟の長幼関係が再び浮上してきた。
(1)最上義光の家族についてみてみる。
義光の正妻は、大崎義直(よしなお)の娘で大崎御前(おおさきごぜん)と呼ばれ、長男義康(よしやす)・次男家親(いえちか)それに竹姫・松尾姫・駒姫(こまひめ)を産む。側室に、天童氏(頼貞)の息女や、清水氏の息女も(清水御前)迎えている。天童夫人は天正10年に義親を産んで死去したとされる。
次に義光の子どもたちを見てみると、長男は義康で、修理大夫に補任された。しかし、熾烈な家督相続をめぐる抗争で、慶長8年(1603)8月に、長男義康は暗殺された。享年29歳。次男は家親(いえちか)で、義光没後、最上12代当主となる。文禄3年(1594)13歳で徳川家康の御前にて元服し、「家」の偏諱(へ3き)を与えられ、駿河守・侍従に補任され、徳川将軍の側近として活躍した。元和3年(1617)3月に山形城中で急死したため(享年36)、子の家信(義俊)が跡を継ぐが(13代)、御家騒動により改易され、近江大森藩1万石で移封した。3男は義親(光氏、氏満、満氏とも)で、義光は義親の方は豊臣秀頼に奉仕させ、その後に義親は清水城主となり、清水大蔵大夫(しみずおおくらだいふ)と称した。義光死後に生じた内紛によって、跡を継いだ兄家親に攻められ、慶長19年10月に自刃した。享年33歳。4男の義忠(よしただ/光茂とも)は、山野辺(やまのべ)城主で山辺(やまのべ)右衛門大夫と称したが、藩主13代最上家信と対立し、改易事件の当事者となる。5男は義直(よしなお/光広とも)で、上山城主となり上 山(かみのやま)兵部大夫(少輔)と称す。6男は光隆(あきたか)で、大山城主となり、大山(おおやま)内膳正と称す。
女子については系図によって長幼が異なるが、『最上家譜』によると、長女は竹姫(たけひめ)といい、氏家尾張守光氏(あきうじ)妻となる。次女は松尾姫(まつおひめ)といい、延沢能登守満延の嫡子又五郎と婚姻した。3女は駒姫(こまひめ)(伊満/いま) といい 、文禄4年(1595)5月、豊臣秀次(ひでつぐ)に嫁ぐが、「秀次事件」に連座し同年8月2日、三条河原で斬罪、時に15歳。4女は、禧久姫(きくひめ)といい、阿波東根家初代となる親宜の妻となる(拙著『最上義光』〈吉川弘文館、2016年〉参照)。
(2)家親と義親の長幼関係について考察する。
奥書�に「最上之御本所義光御三男家親」とあり、この段階では義康暗殺事件等、後に生じる問題はないので、最上家や豊臣政権への配慮などは必要ない。里村紹巴が誤って記載したのでなければ(73歳は当時としてはかなりの高齢である)、次男義親、三男家親という長幼関係は動かしようがなくなる。
しかし、『最上家譜』『最上氏系図〈『寛政重修諸家譜』所収〉』『最上家系〈光明寺所蔵〉』『最上家系図〈宝幢寺本〉』『最上家系図〈常念寺所蔵〉』『最上家系図〈菊地蛮岳旧蔵〉』(「義光の三男なり」とある)『清水大蔵公家図書并家来図』(「義親 実ハ最上出羽守之三男」と記す)等、義親(氏満・光氏とも記載)が記載されている系図は全て次男家親、三男義親としている。
軍記物語も『最上記』『羽陽軍記』『最上合戦記』『奥羽永慶軍記』『会津四家合考』『荘内物語』『羽源記』『白髭水抄』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)等、ほぼ全て次男家親、三男義親としている。これらは江戸時代の作のためか、最上家の内実や政権・幕府との整合性をふまえていて、前述の系図と符合が合うようになっている。
ただ『最上滅亡記』(石川県加賀市立図書館〈聖藩文庫〉所蔵)は、「嫡子ハ修理亮、二男ハ清水大蔵少輔、三男ハ駿河守ト号ス」と記し、『最上斯波家伝』は、義光に5男がいて、嫡子義康・次男清水大蔵大輔・三男山辺右衛門尉・四男駿河守家親・五男源五郎義俊だとする。さらに『北楯氏先祖代々之覚』(『鶴岡市史資料編 荘内史料集 1-2』)にも「一栗兵部」「出羽守二番目之子息清水大蔵与一味仕、駿河守方江謀叛企申」とあって義親を義光の二番目の子とする。こらの記録・覚等はいずれも内容が史実にはほど遠く、その記述部分だけを大写するわけにはいかないが、「次男義親、三男家親」説も根強くあったこともうかがわせる。したがって奥書�は、この説を裏付ける一次史料ということになる。
家親・義親ともに天正10年生まれで、母親が異なることなども長幼関係が混乱する原因となっていると考えられるが 、いずれにしても長幼関係については 今後の課題である。
■執筆:伊藤清郎 (山形大学名誉教授)「歴史館だより�24」特集「三部抄」より
2017/06/01 15:35 (C)
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