本間光丘(ほんまみつおか)偉大な商人資本家:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
本間光丘(ほんまみつおか)偉大な商人資本家


1732〜1801

江戸時代後期の豪農であり偉大な商人資本家。

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に。」

参考書>

本間光丘―人を活かし金を活かす本間流ビジネスマインド
鈴木 旭 (著) ダイヤモンド社 ; ISBN: 4478941157

内容(「BOOK」データベースより)
上杉鷹山を指南した男。酒田商人本間光丘の経営学の神髄。山形・酒田の「本間さま」の基盤を築いた本間光丘―彼は、230年前に既に、リストラ、リエンジ、堅実経営、共存共栄策を実践していた。
目次

第1章 自由都市酒田の伝統・自主自立の気概―本間光丘の精神的土壌
第2章 新興商人のチャンピオン―新時代を開いた本間家創業者の苦闘
第3章 米相場の天才、本間宗久の登場―トップランナー本間家急躍進の秘密
第4章 若き三代目光丘の着眼点―「相場は永く家を保つ道にあらず」
第5章 本間流ケインズ政策の真相―永続的発展の基盤づくり
第6章 破産大名の再建請負ビジネス―経営コンサルタント付き金融サービス事業
第7章 上杉鷹山の再建アドバイザー―貸し付け資本主義の実践
第8章 救済対策から始まった保険ビジネス―人を助けて自分も儲けるアイデア
第9章 最も確実な資本蓄積の道―江戸期商人のやむをえない選択
第10章 蝦夷地経営に乗り出す本間船―果たせぬ夢を追う老商人の情熱


酒田本間家の三代目当主。酒田本間家二代光寿の三男、名は光丘。

「天下第一の豪農」として、庄内藩十四万石の領内において二十四万石の大地主であり、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれ、「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には、累々たる米俵、金銀・銅貨・紙幣・古銭等その数算する能はず」とまでうわさされた羽後酒田の本間家中興の祖といわれる。

本間家はすでに寛永年間にその祖商業を営みながら、酒田町三十六人衆の一人として酒田町長人となり、町政に参与していた。海船問屋として庄内・最上平野に産する米・藍・漆晒、蝋、紅花、からむしなどを買占めて、これを大阪方面に回漕し、帰船には同地方の既製品・古着などを積込んできて販売し、巨利をえた。光丘の代には私財を投じて最上川の治水、酒田西浜の防砂林の植樹、酒田港口の灯台の建立、天明の飢饉における救済などを行い、その功により藩主から「御勝手御用掛」を命ぜられ、その財力によって、藩財政整理に参与し、やがて士分に取立てられ、1770(明和7)年には五百石三十人扶持の高取となった。藩財政整理への参与は庄内藩以外の諸藩にも及んだが、とりわけ米沢藩主鷹山の上杉家中興の偉績に与って力があった。

本間家はその後も着実に発展し、その大名貸しは支藩松山、新庄、米沢、上ノ山、本荘、津軽、南部にまで及んだ。明治以後、最盛期の大正時代には田地が約1600町歩、一族の経営する会社名義のものをあわせると、3000町歩はあっただろうといわれる。大正7年光丘の植林の功績により正五位の贈位があり、これを記念して大正11年「贈正五位本間四郎三郎光丘翁頌徳会」が組織され、光丘神社が建立された。これに対して本間家から光丘以来の本間家の蔵書、建設費、維持基金が頌徳会に寄贈され「光丘文庫」が建立された。現在の市立酒田光丘図書館である。また1768年光丘が建てた旗本2000石の格式をもつ本間家本邸は、山形県指定重要文化財として、酒田市が管理している。「日本歴史大事典」
 


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