これぞ天下の上杉節 4番:山形の歴史・伝統
山形の歴史・伝統 |
これぞ天下の上杉節 4番
2008.03.07:Copyright (C) 鈴鳴草子 〜鈴の宿 登府屋旅館〜
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天下分け目の関ヶ原
たもとをわかつ西東
上杉武士の面目に
景勝直江と意地で立つ
慶長3年(1598)、天下人・豊臣秀吉がこの世を去ります。
翌慶長4年(1599)には、前田利家が亡くなります。
利家は、五奉行の一人で家康と対等に渡り合える唯一の存在でした。
慶長5年(1600)に入ると、徳川家康が天下取りへ向け、活発な活動を開始します。
まず、加賀100万石の前田家を標的にします。
藩主・前田利長や浅野長政らが、家康暗殺計画を企てたとの嫌疑をかけ、加賀征伐を検討します。
利長は、最初交戦するつもりでした。
城を増強し、迎え撃つ準備をしていましたが、母の芳春院が人質になることを条件に撤回し、領国を安堵されます。
次なる標的は、会津120万石の上杉家です。
上杉の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として景勝に逆心有りと糾弾します。
家康は、上洛して釈明し、臣下になるよう再三要求します。
しかし、この要求を上杉家は、頑として拒否しつづけます。
家康は、兼続と親しい僧・承兌に最後通告といえる書状を書かせます。
その返書で兼続は、上杉家の潔白と家康の不義理を追求します。
世に言う「直江状」です。
激怒した家康は、上杉討伐軍を編成し、会津へと攻め上ります。
徳川軍が、小山に差し掛かった頃、上方で石田三成が挙兵。
家康は、上杉討伐を止め、軍を西へと進めます。
そして、運命の関ヶ原の合戦が繰り広げられます。
関ヶ原の合戦前夜、世の武将は徳川方と豊臣方に別れ、派閥のようになっていました。
東北でも、上杉は豊臣方(西軍)、伊達・最上は徳川方(東軍)でした。
長いものには巻かれろとばかり徳川に味方する大名や徳川の力を恐れ生母を差し出した前田家があるなかで、上杉家は徳川家康に対して、敢然と立ち向かいました。
これはまさに、謙信以来の武家としての意地に他なりません。
残念ながら、徳川軍と直接対決することはかないませんでしたが、その後、上杉軍は最上氏の居城を攻め、東北の関ヶ原へと発展していきます。