伊東忠太(いとうちゅうた)日本の誇る建築学の権威:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
伊東忠太(いとうちゅうた)日本の誇る建築学の権威


1867〜1954

建築学者・工学博士。米沢座頭町生れ。
米沢藩士伊東祐順(平田東助の実兄)の次男。

外国語学校独逸語科、第一高等学校、東京帝国大学工科大学造家学科、同大学院と進む。法隆寺を研究して明治31年「法隆寺建築論」と題する論文を発表した。これは日本建築史における最初の論文で、これによって34年工学博士の学位を受く。

30年に「造家学」を「建築学」と改称したのは彼の提唱による。

32年東京帝国大工科大学助教授、38年同教授となり、のち帝国学士院会員、帝国芸術院会員、東京帝国大名誉教授となる。この間、明治工業史編纂委員、関東大震災後の帝都復興院評議員、外務省対中国文化事務局委員、日独文化事業評議員、史蹟名勝天然記念物保存協会評議員、国宝保存会会員、法隆寺壁画委員会委員長等、多方面で活躍する。

日本に初めて建築学を一つの科学として仕立てあげ、日本の建築芸術の発展経路を明らかにすると共に、中国から中央アジア、満州、仏印等を調査して、中国・インド建築に関して「伊東忠太建築文献」「支那建築装飾」など多くの著述を残している。

また在来の中国風の日本寺院建築にあきたらず、東京築地本願寺をインド様式で設計したことも有名であるが、伊勢両宮、明治神宮、平安神宮、靖国神社、震災記念堂、外地では台湾神宮、樺太神宮、朝鮮神宮、そして米沢の上杉神社等、建築設計の実務に当り造営された神社仏閣は実に数多く、何れも日本建築の粋といわれる。昭和18年に文化勲章を受賞する。

学生時代に、米沢には洋学校があるだけに高校への合格率は高いが、進学者は極めて少ないことを思い、

1.郷里の優秀な学生に学費を貸し与えること
2.学生の多い土地に寄宿舎を設けること
3.郷里で教育を奨励すること
4.機関誌を発行し講演会等を催すこと、

を柱とする育英事業の発足を同郷の有志に提唱した。これが次第に多くの賛同者を得て結成されたのが「米沢有為会」である。

米沢市は昭和29年2月名誉市民条例を定め、まず博士を名誉市民に推薦した。 「米沢風土記」より引用


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