上杉文華館「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」:山形の歴史・伝統
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本年度の上杉文華館は、「初公開 上杉鷹山関連および幕末・明治期資料」をテーマに国宝を中心としたゆかりの文化財、貴重な史料をご覧いただきたいと思います。
【展示期間】平成31年2月5日(火)〜平成31年3月3日(日)
《第11回 細井平洲の教え》
国宝上杉家文書の近世文書には上杉鷹山周辺の多くの内政文書や幕末・明治期資料が含まれています。今回は上杉鷹山の学問の師、細井平洲の書状三通です。
尾張国平島村(愛知県東海市)出身の細井平洲の姓は紀氏、諱を徳民、通称甚三郎と言いました。二四歳で江戸に家塾嚶鳴館を開きました。はじめ、生活のため行っていた辻講釈でしたが、それを聞いた鷹山の侍医で学者の藁科松伯が米沢藩に推薦したと言われます。明和元年(一七六四)一一月一六日、上杉家の江戸桜田邸で、八代藩主重定、世子鷹山に初講義を行いました。鷹山一四歳、平洲は三七歳でした。「学思行相須つ」、つまり、学び・考え・実行するという三つがそろって初めて学んだことになる、という実践を重んずる平洲の教えは、鷹山の治世に強い影響を及ぼしました。
国宝上杉家文書中に平洲書状は一八通含まれ、平洲は学問を教授するだけでなく、鷹山の政治に対する様々な相談にのっていたことも確認できます。また、弟子である米沢藩士の書籍購入にも尽力していたことなどが知られます。平洲は米沢に三回下向し、学館再興(藩校興譲館)の指導、落成した学館の運営指導等行いました。入館を許された諸生への講義はもとより、町人・農民への通俗講話等も行われました。平洲は尾張藩、人吉藩にも招かれ、藩主や世子の指導にあたり、享和元年(一八〇一)、江戸で七四歳の生涯を閉じました。
一八通の多くはすでに公開していますが、今回の三通は初公開です。三月二五日付の書状には、「学問大意」のことがでてきますので、寛政元年(一七八九)のものと推定できます。鷹山は一族の子弟、子女に教訓書を贈っていますが、「学問大意」は、鷹山の義弟にあたる上杉重定の六男近江定興に贈られたものです。定興は旗本内藤家の養子となり、内藤信政と名乗ります。「学問大意」は鷹山が定興に贈る前に、平洲に送って指導を受けていたことがわかります。四月一一日付の二通は、鷹山の実子直丸(後の顕孝)が、一〇代藩主上杉治広の世子として江戸に登り、その師について相談したことに対して答えていますので、寛政四年(一七九二)と推定できます。日付の同じもう一通は別紙、追伸にあたります。直丸の江戸登りと交代する形で帰国した駿河守(米沢新田藩三代藩主上杉勝定、上杉重定五男)について、米沢ではなかなか学問をすることが難しくなるので、なるべくその時間を作ってほしいと認めています。
米沢と江戸の距離を、鷹山と平洲の書状は行き来しています。平洲は直丸の師ともなりますが、上杉家一族の人たちのこともよく理解し、気遣いをみせています。
織田信長が謙信に贈った狩野永徳筆の国宝「上杉本洛中洛外図屏風」は、複製(2作目=複製B)となります。
▼ コレクショントーク
平成31年2月9日(土)
14:00〜
場所:常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
皆さまのご来館を心よりお待ちしております。
【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238−26−8001