山野辺義忠の成長期を探る 【5】:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
山野辺義忠の成長期を探る 【5】
最上義光の四男 山野辺義忠の成長期を探る

【五 結論】

 山野辺義忠の成長期を探る手立てとして、その起点とする鮎貝、石川氏の「知行状」を中心に、その解明に努めてきた。この二氏の「知行状」の存在から推察すると、これ以外に同じく家臣として召し上げられた者達がいたのではないか。
 慶長五年(1600)十三歳頃までの、義忠を取り巻く環境、即ち政治、経済的な地盤等については、それらを明らかにする程の物は、何も残されてはいない。ただその一片が、「知行状」に形を変え、残されていた。しかし、何かその痕跡が残されてはいないのか、従来の義忠関連の記事などを拾い、これが筆者の独断と偏見の嫌いがあろうかと思われるが、私見として纏めてみよう。

(A)先の二氏の「知行状」から、楯岡地区の内での楯岡満茂と義忠(幼少時の聖丸)の諸領地の形態が、朧気ながら分かってくる。しかし、義忠の領分を示すものは何も無い。

(B)義忠が大石田の深堀地区の郷土の娘を母として生れ、楯岡満茂の庇護を受け育ッたという。これから、深堀を中心とする地域に、義忠の領分らしきものが散在していたかも知れぬ。

(C)文禄四年(1595)、満茂の仙北湯沢に移った後の、楯岡地区近辺の支配権は誰の手に移ったであろうか。その旧領の一部は、義忠の支配圏下に組み入れられたのではないか。そして、慶長五年(1600)の関ヶ原戦後に、山辺地区へと領地替えが行われたのであろう。

(D)『村山市史』などは、『祥雲寺記録』や『最上楯岡元祖記』などの記録から、「慶長五年から元和三年までは、山野辺右衛門義忠が城番となった。……義光は信用のおける四子義忠を要衝楯岡の城番として、領国の守りを固めようとしたのであろうか。元和三年には義忠は山辺城主として楯岡を去って行った」と。
また、一方では「慶長四己亥年、中山玄蕃預リ勤番、長崎城主七千五石也」、また「山野辺右衛門大夫、元和三丁巳山野辺エ所替也、鮭延越前守勤番、一万五千石、新庄真室城也」などと、関ヶ原戦の前後から、楯岡城の勤番制が始まっていたように思われる。そして、義忠が勤番の任を解かれ、山辺城主に戻ったのは元和三年 (1617)というから、義光の実弟の楯岡光直の楯岡入部の時期は、この頃ではなかったろうか。

 本稿は、義忠の生誕の天正十六年(1588)頃からの、その成長期の生き方を探し求めて来たのであるが、その目的を十分に明らかにすることは困難である。
 曰く、「慶長六年、義忠が一万九千三百石という、楯岡領と変わらない禄高で山辺城主となり、大石田、深堀地区の人々を多数引き連れ、山辺村の南部に住まわせ、さらに深堀村に移した」という。
 思うに、この山辺城主への転身が、義光の四男として羽州の地に、晴れて名乗りを挙げたのではなかろうか。よって義忠の生き方からすれば、この時期あたりまでを成長期として見ても良いだろう。しかし、その調べの内容はと見ると、満足なる結果は得ることはできず、単に石川、鮎貝氏に関わる調査のみに重点が置かれてしまったことは、まことに残念である。
 最後に全くの私見ではあるが、楯岡地区の楯岡満茂の勢力圏の内に生れ育ち、関ヶ原戦の長谷堂合戦の頃までの義忠の成長期を、解いていってみたい。

(E)義忠の諸領地が楯岡地区の内にあった。それがどの辺りかは定かではないが、楯岡満茂の庇護を受けながら成長していった。文禄四年(1595)義忠八歳の時、満茂が最上の将として仙北湯沢を攻め、その一帯を確保したとは申せ、経済的な安定を見たとは思われず、恐らく義忠の山辺への転身の頃までは、楯岡地区を中心とする地域は、依然として経済面の供給源として、満茂の支配権は残されていたのではないか。

(F)湯沢一帯が確実に満茂の勢力圏下に入った以後、満茂旧領の楯岡地区には、幾人かの勤番が勤めていたというから、満茂の旧領は最上氏の蔵入地となったのであろう。そして元和に入ると、義光の実弟の楯岡甲斐守光直が楯岡城主として入部、それは元和八年(1622)の山形藩解体までの短い期間ではあったが、楯岡地区の新しい支配者となった。

(G)義忠三歳の時、そして関ヶ原戦の際にも、家康のもとに送られたというが、それを信ずることは難しい。義忠は関ヶ原戦に於ける長谷堂の合戦時には、何処にいたのであろうか。山形城内かそれとも後詰として楯岡に在ったか。今に伝える [長谷堂合戦図屏風]に、山辺右衛門大輔光茂とある馬上姿の武者が、果たして若き義忠の姿であったのか。それとも文亀頃の刑部直広系につながる、山辺右衛門ではなかったのか。合戦図を描いた戸部正直は、『奥羽永慶軍記』の作者でもあり、長谷堂合戦の記述の中にも「山辺右衛門」が登場している。

(H)関ヶ原戦の際に、家康の許に証人(人質)として差し出したなどと、何を根拠にそのような話しが残されたのだろうか。義忠が合戦の場に居合わせていたとしても、若輩の義忠は後方に在って構えていた。しかし合戦図には華々しい義忠の姿がある。

 『山形県史』や『山形市史』に、同じく[石川文書]の内に記載されている、「知行状」の一本を見てみよう。

長谷堂於表ニ、廿九日手柄之働不有是非候、依之五千苅之地、為加増内置者也、
 慶長六年
  二月廿三日
   石川三四郎殿  光茂

 これは、『山形市史』編集のものであるが、『山形県史』も同じく東大史料編纂所影写本とあるので、同一のものであろう。しかし、その発給年月を県史は慶長八年としているが、これは転写の際の誤記かと考えられよう。とすると、長谷堂合戦に参加し手柄をたてた石川三四郎に対しての、論功行賞であることが判る。この「知行状」から推察すれば、この合戦に義忠の軍勢も参加していたことが判る。しかし、義忠自身も陣頭に立って指揮を採っていたかは、ここで明言することは難しい。しかし、他にこれに似たような史料でも現れれば、はっきりするのではあるが。この石川三四郎と与三右兵衛(与惣兵衛)との関係については、はっきり掴むことはできないが同族であろう。
 参考のために、与三右兵衛一族の略歴を述べてみる。

(イ)隆永 与惣兵衛(与三右兵衛)

(ロ)重昌 弥一郎(隆永弟)
大崎氏ニ属シ、天正十六年奥州ニテ戦死、

(ハ)重永 与八郎(隆永弟)
大崎氏没落後、最上家ニ仕フ、長谷堂戸上山麓ニ於テ戦死ス、

(ニ)重頼 半兵衛(隆永弟)
天正十九年、父ニ従イ羽州楯岡ニ移ル、父没後ハ山辺町ニ住ス、寛永四年、伊達宗泰ニ仕フ、

(ホ)重之 仁兵衛(隆永弟)
天正十六生ル、元和九年、鶴岡城主酒井家ニ任フ、

(へ)重成 与兵衛(隆永弟)
元和九年、義兄田左衛門重綱、並二兄仁兵衛重之ト共ニ、酒井家ニ召抱エラル、

(ト)女子(隆永妹)
同属石川田左衛門重綱ノ室、

 ここに、石川隆永の五人の弟と、一人の妹を拾ってみたが、奥州で戦死した一人を除き、五人は共に最上へ移り、一人は長谷堂合戦で戦死したとしている。妹の記述に田左衛門の室とあるが、同じく[石川文書]の中に、義忠の慶長九年発給の田左衛門宛の一,知行状」がある。このように、同族の田左衛門も共に奥州から逃れ来て、義忠に仕えていたことが分かる。
 以上、山野辺義忠の成長期を探ると題し、極めて少ない参考文献を基に纏めあげてみた。本稿はその数少ない資料の内から、豊臣秀吉の奥州仕置の前後に、隣国から逃れ来て、最上の家臣となった石川氏の伝える資料が、調査の本流となってしまったことは、これも致し方の無いことである。それほどに、義忠の成長期を解き明かす程の、真実の姿を描いたものは皆無に近いと云ってもよいだろう。
 義忠の成長期から脱皮して、一人前の武将としてしての出発点と見る長谷堂合戦に、義忠は何らかの形で参加していたのではないか。それは義忠の次への道へと歩を進める、最初の一歩でもあったろう。
 最後に、本稿の全ての内容を肯定する程の自信は無い。しかし従来、語り伝えられてきた諸説に対し、いくらかの波紋を投げ与えられたのではなかろうか。

終り

[主な参考文献]
山形県史・古代中世史料1  山形市史・史料編1  北村山郡史  祥雲寺記録  楯岡元祖記  奥羽永慶軍記  鶏肋編  本城文書  山辺町郷土概史  貞山公治家記  鮎貝の歴史  鮎貝累代記  楯岡笠原文書  石川文書  鶴岡石川家系譜  最上四十八館の研究  私説やまのべ風土記  山辺町史資料集  楯岡笠原文書  山辺郷2号  山形県地城史研究10号  寛政重修諸家譜  戦国時代人物事典  角川日本地名辞典  戦国大名家臣団事典  楯岡史寸録  郷土史読本

■執筆:小野未三

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2013.02.25:Copyright (C) 最上義光歴史館
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