山野辺義忠の成長期を探る 【4】:山形の歴史・伝統
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山野辺義忠の成長期を探る 【4】
最上義光の四男 山野辺義忠の成長期を探る
【四 義忠の従来の人物評とは】
これまでは、家臣の知行状を柱にして、その解明に努めてきた。こゝに先人達の述べられてこられた、義忠に関わる関連記事を取り上げて見る。いずれも概要のみの引用ではあるが、その代表的な『山辺郷土概史』などを中心に取り上げてみる。
イ、天正十六年、最上義光の第四子として山形城に生まれる。
ロ、天正十八年三歳の時、早くも人質となって徳川家康のもとに送られている。
ハ、家康の城に在営中、早くも老政治家家康の慧眼に映じ、「将来恐るべき怪童である」と賞賛された。
二、義光は秀吉に接近することは容易ではなかったらしく、その都度、家康の労を煩わし……その恩義に報いるため、家親(義光次男)を人質に入れたが、小田原参陣の折り義忠を人質に入れることを約束した。
ホ、[水戸藩国老山野辺家系図]に、関ヶ原御陣之節、父出羽守義光、義忠ヲ以テ証人ニ差上ゲ……
ヘ、義忠の一生は実に波乱重畳を極め、その発端は関ヶ原戦に際し義光の人質となり、家康の下に赴いた。時に齢十三歳、在府僅かに一年に過ぎなかったにもかかわらず、家康の慧眼に映じ、将来恐るべき怪童であると言わしめた。
以上、話しが少し重複したが、後に水戸藩士となる山野辺氏の家系図は、関ヶ原戦の際に人質として家康のもとに行ったとしているが、果たして事実であったろうか、疑問の残る話しである。また天正十八年(1590)三歳の時、人質となり家康のもとへと云っているが、この年は関白秀吉の奥州の陣の年であり、義光が次男の家親を、家康に差し出した年である、同じこの年に三歳の幼児の義忠を、共に家康のもとに送られるだろうか。
このように、義忠の成長期の動向についての評価は、全く実の有る正しい見方から、かけ離れたものになってしまっているようだ。
義忠の成長期を語る中で、石川、鮎貝氏を取り上げている文献等が、少しは見られるようだ。ここに三点の事典の類いを取り上げてみよう。
ト、『戦国大名家臣団事典』(昭五十六年 新人物往来社)
某年二月九日、石河太左衛門に宛てた光茂(義忠)書状と伝えられる文書(石川文書)によると、光茂は石河に百石を給しており、山野辺氏には家中も多く、年寄などの重臣や近習もいたらしい……
チ、『日本歴史地名大系』(平二年 平凡社)
楯岡村 天正二十年二月二八日の二通の楯岡聖王丸充行状写によれば、最上義光の四男満茂が楯岡城主で、「楯岡ニ南谷地田之内、知明堰ニ壱万苅之所」を石川与三右兵衛尉に、「楯岡之内、谷地田并知明堰二壱万五千苅之所」を、鮎貝摂津守宗信に宛行っている。
リ、『戦国時代人物事典』(平二十一年 歴史群像編集部)
楯岡光直 〜寛永六、甲斐守、楯岡城主、義守の子、義光の弟、幼名聖王丸、楯岡氏は最上氏の一族であるが、義光時代の当主満茂との関係は未詳、文禄元年(1592)二月二十八日付で、家臣に知行を与えた文書が残っており、この時期にはすでに楯岡城主となっていたことがわかる。一族の重臣として一万六千石を領す、……元和八年、最上氏改易により、小倉城主細川忠利に預けられた。
山辺光茂 義忠とも、最上義光の四男、山辺城主、長谷堂合戦屏風左隻に山辺右衛門太夫として登場するが、当時まだ十三才であり、先陣に加わったかは未詳……
以上、ここに三点の図書を取り上げた。(ト)、(チ)では義忠と例の「知行状」との関連について述べてはいる。しかし、(リ)の楯岡光直の履歴を見ると、支離滅裂というか、全く意味を為さない記述となっている。楯岡甲斐守光直の人間像が、全く否定されているといっても過言ではない。
しかし、これはこの稿の筆者自身の意図で書かれたものではなく、編集の段階で第三者の手により前後の意味を解せず省略し、簡潔にまとめ上げた結果、このような記述となったのであろう。
このように、郷土史や事典などから、義忠関連の記事を拾ってみたのだが、首をかしげたくなるような箇所が所々に見られることだ。特に「天正十八年三歳の時、人質として家康のもとへ……」とするは、この年は秀吉の奥州出陣の際に、義光が次男の家親を徳川家康に差し出した年である。この年に幼少の義忠をも、重ねて差し出すであろうか。また、一方では関ヶ原戦に於いて、証人として差し出したとも云っている。
このように、義忠の証人(人質)問題を採って見ても、確たる証拠の無いまゝに、今日まで時が流れてきてしまったようだ。
■執筆:小野未三
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【四 義忠の従来の人物評とは】
これまでは、家臣の知行状を柱にして、その解明に努めてきた。こゝに先人達の述べられてこられた、義忠に関わる関連記事を取り上げて見る。いずれも概要のみの引用ではあるが、その代表的な『山辺郷土概史』などを中心に取り上げてみる。
イ、天正十六年、最上義光の第四子として山形城に生まれる。
ロ、天正十八年三歳の時、早くも人質となって徳川家康のもとに送られている。
ハ、家康の城に在営中、早くも老政治家家康の慧眼に映じ、「将来恐るべき怪童である」と賞賛された。
二、義光は秀吉に接近することは容易ではなかったらしく、その都度、家康の労を煩わし……その恩義に報いるため、家親(義光次男)を人質に入れたが、小田原参陣の折り義忠を人質に入れることを約束した。
ホ、[水戸藩国老山野辺家系図]に、関ヶ原御陣之節、父出羽守義光、義忠ヲ以テ証人ニ差上ゲ……
ヘ、義忠の一生は実に波乱重畳を極め、その発端は関ヶ原戦に際し義光の人質となり、家康の下に赴いた。時に齢十三歳、在府僅かに一年に過ぎなかったにもかかわらず、家康の慧眼に映じ、将来恐るべき怪童であると言わしめた。
以上、話しが少し重複したが、後に水戸藩士となる山野辺氏の家系図は、関ヶ原戦の際に人質として家康のもとに行ったとしているが、果たして事実であったろうか、疑問の残る話しである。また天正十八年(1590)三歳の時、人質となり家康のもとへと云っているが、この年は関白秀吉の奥州の陣の年であり、義光が次男の家親を、家康に差し出した年である、同じこの年に三歳の幼児の義忠を、共に家康のもとに送られるだろうか。
このように、義忠の成長期の動向についての評価は、全く実の有る正しい見方から、かけ離れたものになってしまっているようだ。
義忠の成長期を語る中で、石川、鮎貝氏を取り上げている文献等が、少しは見られるようだ。ここに三点の事典の類いを取り上げてみよう。
ト、『戦国大名家臣団事典』(昭五十六年 新人物往来社)
某年二月九日、石河太左衛門に宛てた光茂(義忠)書状と伝えられる文書(石川文書)によると、光茂は石河に百石を給しており、山野辺氏には家中も多く、年寄などの重臣や近習もいたらしい……
チ、『日本歴史地名大系』(平二年 平凡社)
楯岡村 天正二十年二月二八日の二通の楯岡聖王丸充行状写によれば、最上義光の四男満茂が楯岡城主で、「楯岡ニ南谷地田之内、知明堰ニ壱万苅之所」を石川与三右兵衛尉に、「楯岡之内、谷地田并知明堰二壱万五千苅之所」を、鮎貝摂津守宗信に宛行っている。
リ、『戦国時代人物事典』(平二十一年 歴史群像編集部)
楯岡光直 〜寛永六、甲斐守、楯岡城主、義守の子、義光の弟、幼名聖王丸、楯岡氏は最上氏の一族であるが、義光時代の当主満茂との関係は未詳、文禄元年(1592)二月二十八日付で、家臣に知行を与えた文書が残っており、この時期にはすでに楯岡城主となっていたことがわかる。一族の重臣として一万六千石を領す、……元和八年、最上氏改易により、小倉城主細川忠利に預けられた。
山辺光茂 義忠とも、最上義光の四男、山辺城主、長谷堂合戦屏風左隻に山辺右衛門太夫として登場するが、当時まだ十三才であり、先陣に加わったかは未詳……
以上、ここに三点の図書を取り上げた。(ト)、(チ)では義忠と例の「知行状」との関連について述べてはいる。しかし、(リ)の楯岡光直の履歴を見ると、支離滅裂というか、全く意味を為さない記述となっている。楯岡甲斐守光直の人間像が、全く否定されているといっても過言ではない。
しかし、これはこの稿の筆者自身の意図で書かれたものではなく、編集の段階で第三者の手により前後の意味を解せず省略し、簡潔にまとめ上げた結果、このような記述となったのであろう。
このように、郷土史や事典などから、義忠関連の記事を拾ってみたのだが、首をかしげたくなるような箇所が所々に見られることだ。特に「天正十八年三歳の時、人質として家康のもとへ……」とするは、この年は秀吉の奥州出陣の際に、義光が次男の家親を徳川家康に差し出した年である。この年に幼少の義忠をも、重ねて差し出すであろうか。また、一方では関ヶ原戦に於いて、証人として差し出したとも云っている。
このように、義忠の証人(人質)問題を採って見ても、確たる証拠の無いまゝに、今日まで時が流れてきてしまったようだ。
■執筆:小野未三
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