関東に於ける最上義光の足跡を求め【6】:山形の歴史・伝統
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関東に於ける最上義光の足跡を求め【6】
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―
【六 少将叙任の頃】
義光の念願の少将への遭が開けたのは何時であったか。
『寛政重修諸家譜』は、「慶長十六年三月二十三日、東照宮御参内有て、広忠卿の御贈官を謝せらる、このとき、少将に任ず」とある。また他にも同じような記述があるが、果たして事実であったのか。当時の公の文書や個人の記録等から、この年の義光叙任の記録を探しだすのは難しい。『武家官位記』や『武家補任』にはその記録は無く、見落としもあるとは思うが、しかし、『続撰武家補任』には、慶長十六年三月叙任の記録がある。
この年は、三月に始まった江戸城普請、そして禁裏修造と、諸国大名達にとっては経済的負担を強いられた年でもあった。駿府を出立した家康が二条城に入ったのは三月十七日、そして二十・一日の両日に叙任の栄に浴した者達は徳川一門[注1]であり、それ以外の大名達の記録は見当たらない。
昨今の文禄・慶長期に於ける「武官官位」に関する研究書[注2]を拾い読みすると、管見の限りに於いて、義光の私家史料の記事を是認、一方では叙任の証となる「口宣案」と公家「日記」等をもとに、諸家の叙任記録に疑問を呈するものと、大きく二通りの見解を示しているように思われる。このような中で、義光の十六年三月叙任は間違いではなかったか、それに疑問を投げかけるような史料も、散見するのである。
先に公家の舟橋秀賢が義光と親交があったことを述べた。その秀賢が同年十月の参府に際し、将軍秀忠の催した猿楽の席に招かれ、義光も同席していることが、秀賢の日記は伝えている。
廿一日、朝、払暁冷認、黎明登城、即猿楽相始、大夫ハ今春・妻少進法印両人也、………伊達息子・橘左近・毛利宰相・最上侍従・加藤左馬助、其他大名衆相伴也、入夜前大樹へ参、備前女中より雁一ツ給之、
この時の「最上侍従」とは義光なのか、それとも家親なのか。二日後の日記に見られる「最上侍従」とは、当然、家親のことであるから、前者の侍従とは義光を指しているものと考えてもよいのではないか。
廿三日、佐久間備前守へ朝 ニ行、次三縁増上寺へ見物ニ行、晩最上駿河守へ行、滌(扇)五筋遣之、対面畢、参前大樹(家康)、
秀賢の日記は、この十月の時点に於いて、義光を侍従としていことは、秀賢は未だ義光の少将叙任を知ってはいなかったのか。それとも筆の誤り侍従としたのか。
明けて十七年正月、家康が発した法令三ケ条を定めた誓書[注3]は、最上侍従としている。
条々
去年四月十二日、前右府様如仰出、任右大将家以来代々将軍方式、可奉仰之、被損益而、重而於被出御目録者、弥堅可守其旨事、
(二ケ条略ス)
右条々若有背輩者、被遂御糾明、速可被処科者也、如件。
慶長十七年正月
津軽越中守 会津侍従 丹羽宰相 南部信濃守
秋田侍従 越前少将 安房侍従 立花侍従
米沢中納言 最上侍従 大崎侍従
この「誓書」については、数本の写しを参考にしたが、『上杉御年譜』のみ日付を十五日にしているが、内容は同じである。大崎侍従とは伊達政宗の事で、既に少将に任ぜられている。この最上侍従にしても、一国の藩主でもない家親に比定するのは無理であり。義光のことである。この「誓書」の最上侍従とするのは誤りで、最上少将とするのが正しいのではないか。
地元に残る義光関連の「寄進状」の多くには、「慶長十七年六月四日 少将出羽守」と、圧倒的に慶長十七年六月には少将に叙せられていることを示している。また鶴岡の日枝神社に義光寄進の「鰐ロ」・「鉄鉢」にも、「慶長十六年辛亥四月十四日 少将出羽守義光」の著名がある。また他にも例を見ることから、少将叙任の時期は慶長十六年三月であろう[注4]。
出羽国庄内櫛引郡鶴岡山王之霊地久怠点処加再興殊奉納鰐口上下之社者也
慶長十六年辛亥卯月四月十四日
少将出羽守義光敬白
また、この年の八月十二日発給の、少将叙任に関わるものかと思われる複数ある文書から、その一部を取り上げて見よう。
最上出羽守義光書 秋田長山文書
御位の御志うきとして、わさとまてにさし上申され候、御めてたふ
一、銀子 三匁
一、あふき 一本 なか山わかさ
以上
慶長十六年
八月十二日(小黒印)たちま
ミの
この叙任の祝儀として家臣達に与えた「目録」であろうが、その叙任の喜びを共に分かちあえたことであろう。大名やその嫡子の官位叙任に際しては、藩内では江戸と国元で一年かけて盛大な祝が為されたという。その時には、藩主から家中へ御祝儀が振るまわれ、また家中からも藩主へ御祝儀献上もあった。これらは近世前期から行われており、官位叙任は家中をも含め大きな慶事[注5]であった。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『史料綜覧』(慶長十六年三月条)
2、「近世武家官位制の成立過程について」(『史林』七四巻九号・平三年 季 煌)
李は家康・秀忠の時期は、将軍宣下・上洛と大きく関連があるという。それが慶長十六年の従四位下以上の叙任については、吉良義弥を除き、家康上洛の三月廿前後にとり行われたしており、義光の名も挙げている。
「慶長期大名の氏姓と官位」(『日本史研究』四一四号・平九年 黒田基寿)
黒田は慶長期の諸大名とその嗣子の叙任について、年代別に示しているが、義光の叙任の記録もある。
「天正・文禄・慶長年間の公家成・諸大夫一覧」(『栃木史学』七号・平五年 下村 效)下村は「武家補任や「寛政譜」などの誤りが多い事から、「口宣案」や「公家」日記などの確かな史料により、大名の官位叙任を拾っていくしかない。総じて諸家の「寛政譜」など、特に天正・文禄・慶長初期については、信頼しがたい部分が少なくない、と述べている。
3、「諸法度」(『大日本史料』12編之9)
4、『山形市史・史料編l』
5、「近世武家官位試論」(『歴史学研究』七〇三号・平九年 掘 新)
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【六 少将叙任の頃】
義光の念願の少将への遭が開けたのは何時であったか。
『寛政重修諸家譜』は、「慶長十六年三月二十三日、東照宮御参内有て、広忠卿の御贈官を謝せらる、このとき、少将に任ず」とある。また他にも同じような記述があるが、果たして事実であったのか。当時の公の文書や個人の記録等から、この年の義光叙任の記録を探しだすのは難しい。『武家官位記』や『武家補任』にはその記録は無く、見落としもあるとは思うが、しかし、『続撰武家補任』には、慶長十六年三月叙任の記録がある。
この年は、三月に始まった江戸城普請、そして禁裏修造と、諸国大名達にとっては経済的負担を強いられた年でもあった。駿府を出立した家康が二条城に入ったのは三月十七日、そして二十・一日の両日に叙任の栄に浴した者達は徳川一門[注1]であり、それ以外の大名達の記録は見当たらない。
昨今の文禄・慶長期に於ける「武官官位」に関する研究書[注2]を拾い読みすると、管見の限りに於いて、義光の私家史料の記事を是認、一方では叙任の証となる「口宣案」と公家「日記」等をもとに、諸家の叙任記録に疑問を呈するものと、大きく二通りの見解を示しているように思われる。このような中で、義光の十六年三月叙任は間違いではなかったか、それに疑問を投げかけるような史料も、散見するのである。
先に公家の舟橋秀賢が義光と親交があったことを述べた。その秀賢が同年十月の参府に際し、将軍秀忠の催した猿楽の席に招かれ、義光も同席していることが、秀賢の日記は伝えている。
廿一日、朝、払暁冷認、黎明登城、即猿楽相始、大夫ハ今春・妻少進法印両人也、………伊達息子・橘左近・毛利宰相・最上侍従・加藤左馬助、其他大名衆相伴也、入夜前大樹へ参、備前女中より雁一ツ給之、
この時の「最上侍従」とは義光なのか、それとも家親なのか。二日後の日記に見られる「最上侍従」とは、当然、家親のことであるから、前者の侍従とは義光を指しているものと考えてもよいのではないか。
廿三日、佐久間備前守へ朝 ニ行、次三縁増上寺へ見物ニ行、晩最上駿河守へ行、滌(扇)五筋遣之、対面畢、参前大樹(家康)、
秀賢の日記は、この十月の時点に於いて、義光を侍従としていことは、秀賢は未だ義光の少将叙任を知ってはいなかったのか。それとも筆の誤り侍従としたのか。
明けて十七年正月、家康が発した法令三ケ条を定めた誓書[注3]は、最上侍従としている。
条々
去年四月十二日、前右府様如仰出、任右大将家以来代々将軍方式、可奉仰之、被損益而、重而於被出御目録者、弥堅可守其旨事、
(二ケ条略ス)
右条々若有背輩者、被遂御糾明、速可被処科者也、如件。
慶長十七年正月
津軽越中守 会津侍従 丹羽宰相 南部信濃守
秋田侍従 越前少将 安房侍従 立花侍従
米沢中納言 最上侍従 大崎侍従
この「誓書」については、数本の写しを参考にしたが、『上杉御年譜』のみ日付を十五日にしているが、内容は同じである。大崎侍従とは伊達政宗の事で、既に少将に任ぜられている。この最上侍従にしても、一国の藩主でもない家親に比定するのは無理であり。義光のことである。この「誓書」の最上侍従とするのは誤りで、最上少将とするのが正しいのではないか。
地元に残る義光関連の「寄進状」の多くには、「慶長十七年六月四日 少将出羽守」と、圧倒的に慶長十七年六月には少将に叙せられていることを示している。また鶴岡の日枝神社に義光寄進の「鰐ロ」・「鉄鉢」にも、「慶長十六年辛亥四月十四日 少将出羽守義光」の著名がある。また他にも例を見ることから、少将叙任の時期は慶長十六年三月であろう[注4]。
出羽国庄内櫛引郡鶴岡山王之霊地久怠点処加再興殊奉納鰐口上下之社者也
慶長十六年辛亥卯月四月十四日
少将出羽守義光敬白
また、この年の八月十二日発給の、少将叙任に関わるものかと思われる複数ある文書から、その一部を取り上げて見よう。
最上出羽守義光書 秋田長山文書
御位の御志うきとして、わさとまてにさし上申され候、御めてたふ
一、銀子 三匁
一、あふき 一本 なか山わかさ
以上
慶長十六年
八月十二日(小黒印)たちま
ミの
この叙任の祝儀として家臣達に与えた「目録」であろうが、その叙任の喜びを共に分かちあえたことであろう。大名やその嫡子の官位叙任に際しては、藩内では江戸と国元で一年かけて盛大な祝が為されたという。その時には、藩主から家中へ御祝儀が振るまわれ、また家中からも藩主へ御祝儀献上もあった。これらは近世前期から行われており、官位叙任は家中をも含め大きな慶事[注5]であった。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『史料綜覧』(慶長十六年三月条)
2、「近世武家官位制の成立過程について」(『史林』七四巻九号・平三年 季 煌)
李は家康・秀忠の時期は、将軍宣下・上洛と大きく関連があるという。それが慶長十六年の従四位下以上の叙任については、吉良義弥を除き、家康上洛の三月廿前後にとり行われたしており、義光の名も挙げている。
「慶長期大名の氏姓と官位」(『日本史研究』四一四号・平九年 黒田基寿)
黒田は慶長期の諸大名とその嗣子の叙任について、年代別に示しているが、義光の叙任の記録もある。
「天正・文禄・慶長年間の公家成・諸大夫一覧」(『栃木史学』七号・平五年 下村 效)下村は「武家補任や「寛政譜」などの誤りが多い事から、「口宣案」や「公家」日記などの確かな史料により、大名の官位叙任を拾っていくしかない。総じて諸家の「寛政譜」など、特に天正・文禄・慶長初期については、信頼しがたい部分が少なくない、と述べている。
3、「諸法度」(『大日本史料』12編之9)
4、『山形市史・史料編l』
5、「近世武家官位試論」(『歴史学研究』七〇三号・平九年 掘 新)