関東に於ける最上義光の足跡を求め 【4】:山形の歴史・伝統
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関東に於ける最上義光の足跡を求め 【4】
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―
【四 慶長十一、二年の江戸城普請の頃】
慶長十年(1605)暮、幕府は翌年三月に開始する江戸城普請手伝いを、諸国大名に命じている。幕府の大名達に発した年寄「奉書[注1]」から、秋田藩宛のものを取り上げてみる。
態令啓上候、御領分之人足、千石ニ付而壱人宛之積を以、
江戸城御普請被仰付候間、来年三月一日至于江戸参着仕様ニ、可被仰付候、為其如此候、恐々謹言
大久保相模守 忠隣
本多佐渡守 正信
秋田侍従殿
人々御中
この年の助役は西国筋の大名が占め、東北・出羽などの大名の参加は無かったようだ。『当代記』には「関東在囲之衆は、去年将軍上洛し給、依造作普請赦免、但去年留守居不上洛の衆、千石に一人つつ人夫を出す」とある。秋田藩が直接、工事に参加したのは十二年であった。
「最上家譜」が云うには、「十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普請之御役相勤候之節」、また「寛政重修諸家譜」も「十一年江戸城の普請をうけたまわり、御書三通を下されて労はせたまふ」と、藩の参加を示唆している。だが『当代記』によると、「当月朔日(十二年閏四月)より江戸普請、関八州并安房・信濃・越後・奥州・出羽衆行之、関東衆百万を二十万石宛五年に分、八十万石にて石をよせ、廿万石にて殿守之石垣被築、奥州衆伊達政宗、米沢長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田に住の佐竹、云々とあり、十二年参加の東国大名達の名を挙げている。ここで十一年の普請手伝いの様子を見てみよう。
慶長十一年二月、大名関東へ下り、江戸城石垣ヲ築、其々ノ町場ニ大名等タチツケヲ著シ、自身爰ニ居ス、台徳公朝夕両度ツゝ御普請場へ御歩行ニテ御廻リ遊ハサル、御城初ノ御普請故、欺アルヘキ事、大名等モ尤ノ事也、戦場之役ヲ勤ルトハ、御普請御手伝役ハ、物ノ数ニモオラサルヘシ、扨此節マタハ諸士未タ屋敷ナキ故、町屋ニ宿ス、[注2]
このように、大名達は直接普請場に出向き、工事を督励していたのであろう。この時期は藩自体の屋敷も完備されてはおらず、家臣や多くの人夫達の宿舎の確保も、大変な仕事であったであろう [注3] 。「最上家譜」に、次のような秀忠からの書状がある。
(前略)
同十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普君之御役相勤候之節、
(イ)
就其許普請、差越使者之苦労之程察恩召候、猶口上申含候也、
五月十二日 秀忠 (御黒印)
最上少将とのへ
(ロ)
為普請見廻差越使者、炎天之時分苦労之程察思召候、将又帷子如目録遣之候、猶之候、猶口上申含候也、
六月廿一日 秀忠 (衛黒印)
最上少将とのへ
(ハ)
来翰令被閲候、然者今度普請延引ニ付而之差上候者共、自路次罷帰候由尤候、被入念候旨早々示預、本望之至候、猶期後音之時、 恐々謹言
六月廿八日 秀忠 (御判)
最上出羽守殿
この三通の書状のうちから(イ)、(ロ)は「最上少将」宛となっているが、義光の少将叙任は慶長十六年(1611)以降であるから、これはそれ以後の普請の際に下されたものと考えるべきである。これが「最上家伝覚書」では、(イ)は「五月十三日、御黒印、最上侍従とのへ」と。(ロ)は「最上侍従とのへ」。(ハ)は「家康御判」としている。このように、同じ最上家側の記録とは申せ、何時しかこのような誤りも生じてくるようだ[注4]。
『出羽三山史料集』には、「初ニ義光庄内ヲ切取納後、慶長十一年六月最上出羽守義光、羽黒御参詣有り」と、六月には在国している。
「武徳編年集成」(『東京市史稿』)は次のようにいう。
朔日江戸城本丸ノ天守修造始ル、伊達・蒲生・上杉・最上・佐竹・溝口・掘・村上・等是ニ与ル、天守台二重目ハ伊達政宗一人ニテ是ヲ修造ス、天守台石垣ハ南部。津軽両家是ヲ築ク、関東及ヒ信州御譜代ニ非サル十万石ヨリ一万石ノ輩、其高都合二百万石ヲ五組トシ、其四組石ヲ運送シ、一組ハ是ヲ築ク、
この十二年の工事開始は前年度を引継ぎ、閏四月に始まっている。伊達家は天守閣の築造と、最上家と同様に掘開削にも従事している。またこの年は駿府城の二度目の工事も始まっている。『当代記』は次のようにいう。
此比、駿河為普清、越前・美濃・尾張・三州。速江衆下る、上方衆去年江戸普請に被下衆、此度駿河へ悉相下、是は何も一万石二万石、或は千石二千石とりの小身の衆也
この工事は七月には一応の完成を見るが、暮に失火で消失、改めて完成したのは翌年の十月である。初めの完成時には朝廷、諸大名の祝賀を受け[注5]、義光も「慶長十二未七月、神君駿府江御移之節、参府恐悦、国許ノ土産献上」と、「最上家譜」はその駿府入りを伝えている。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店・平十一年 高木将作)
2、「君臣言行録」(『東京市史稿』)
3、『千代田区史・上巻』(千代田区・昭三十五年)
毛利家文書によると、家臣の普請役割当てを総数2,988人として、十一年正月には1,980余人が萩を出発、これも軍役の一種として藩から補助があるとしても、家臣達にしては大きな経済的負担となり、この江戸勤番を果たすために負債に苦しられ、藩自体も京・堺の商人から多くの金子を工面したという。
4、『山形県史・第二巻近世編上』(山形県・昭六十年)
この書状については、慶長十一年義光が人足を途中で帰国させ、将軍より与えられた感状である。普請延期とはこの年は西日本の大名達による普請であったので、最上勢はすぐ帰国したのではといっているが、「最上少将」についての疑念は示していない。
5、『史料綜覧』(慶長十二年七月条)
駿府城修築ノ功竣り、家康、之ニ移ル、尋テ、太刀・馬ヲ家康ニ賜ヒ、政仁親王モ亦、太刀・馬ヲ賜フ、秀忠・豊臣秀吉及ビ諸大名等、各大名達、冬物ヲ進メテ賀ス、
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【四 慶長十一、二年の江戸城普請の頃】
慶長十年(1605)暮、幕府は翌年三月に開始する江戸城普請手伝いを、諸国大名に命じている。幕府の大名達に発した年寄「奉書[注1]」から、秋田藩宛のものを取り上げてみる。
態令啓上候、御領分之人足、千石ニ付而壱人宛之積を以、
江戸城御普請被仰付候間、来年三月一日至于江戸参着仕様ニ、可被仰付候、為其如此候、恐々謹言
大久保相模守 忠隣
本多佐渡守 正信
秋田侍従殿
人々御中
この年の助役は西国筋の大名が占め、東北・出羽などの大名の参加は無かったようだ。『当代記』には「関東在囲之衆は、去年将軍上洛し給、依造作普請赦免、但去年留守居不上洛の衆、千石に一人つつ人夫を出す」とある。秋田藩が直接、工事に参加したのは十二年であった。
「最上家譜」が云うには、「十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普請之御役相勤候之節」、また「寛政重修諸家譜」も「十一年江戸城の普請をうけたまわり、御書三通を下されて労はせたまふ」と、藩の参加を示唆している。だが『当代記』によると、「当月朔日(十二年閏四月)より江戸普請、関八州并安房・信濃・越後・奥州・出羽衆行之、関東衆百万を二十万石宛五年に分、八十万石にて石をよせ、廿万石にて殿守之石垣被築、奥州衆伊達政宗、米沢長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田に住の佐竹、云々とあり、十二年参加の東国大名達の名を挙げている。ここで十一年の普請手伝いの様子を見てみよう。
慶長十一年二月、大名関東へ下り、江戸城石垣ヲ築、其々ノ町場ニ大名等タチツケヲ著シ、自身爰ニ居ス、台徳公朝夕両度ツゝ御普請場へ御歩行ニテ御廻リ遊ハサル、御城初ノ御普請故、欺アルヘキ事、大名等モ尤ノ事也、戦場之役ヲ勤ルトハ、御普請御手伝役ハ、物ノ数ニモオラサルヘシ、扨此節マタハ諸士未タ屋敷ナキ故、町屋ニ宿ス、[注2]
このように、大名達は直接普請場に出向き、工事を督励していたのであろう。この時期は藩自体の屋敷も完備されてはおらず、家臣や多くの人夫達の宿舎の確保も、大変な仕事であったであろう [注3] 。「最上家譜」に、次のような秀忠からの書状がある。
(前略)
同十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普君之御役相勤候之節、
(イ)
就其許普請、差越使者之苦労之程察恩召候、猶口上申含候也、
五月十二日 秀忠 (御黒印)
最上少将とのへ
(ロ)
為普請見廻差越使者、炎天之時分苦労之程察思召候、将又帷子如目録遣之候、猶之候、猶口上申含候也、
六月廿一日 秀忠 (衛黒印)
最上少将とのへ
(ハ)
来翰令被閲候、然者今度普請延引ニ付而之差上候者共、自路次罷帰候由尤候、被入念候旨早々示預、本望之至候、猶期後音之時、 恐々謹言
六月廿八日 秀忠 (御判)
最上出羽守殿
この三通の書状のうちから(イ)、(ロ)は「最上少将」宛となっているが、義光の少将叙任は慶長十六年(1611)以降であるから、これはそれ以後の普請の際に下されたものと考えるべきである。これが「最上家伝覚書」では、(イ)は「五月十三日、御黒印、最上侍従とのへ」と。(ロ)は「最上侍従とのへ」。(ハ)は「家康御判」としている。このように、同じ最上家側の記録とは申せ、何時しかこのような誤りも生じてくるようだ[注4]。
『出羽三山史料集』には、「初ニ義光庄内ヲ切取納後、慶長十一年六月最上出羽守義光、羽黒御参詣有り」と、六月には在国している。
「武徳編年集成」(『東京市史稿』)は次のようにいう。
朔日江戸城本丸ノ天守修造始ル、伊達・蒲生・上杉・最上・佐竹・溝口・掘・村上・等是ニ与ル、天守台二重目ハ伊達政宗一人ニテ是ヲ修造ス、天守台石垣ハ南部。津軽両家是ヲ築ク、関東及ヒ信州御譜代ニ非サル十万石ヨリ一万石ノ輩、其高都合二百万石ヲ五組トシ、其四組石ヲ運送シ、一組ハ是ヲ築ク、
この十二年の工事開始は前年度を引継ぎ、閏四月に始まっている。伊達家は天守閣の築造と、最上家と同様に掘開削にも従事している。またこの年は駿府城の二度目の工事も始まっている。『当代記』は次のようにいう。
此比、駿河為普清、越前・美濃・尾張・三州。速江衆下る、上方衆去年江戸普請に被下衆、此度駿河へ悉相下、是は何も一万石二万石、或は千石二千石とりの小身の衆也
この工事は七月には一応の完成を見るが、暮に失火で消失、改めて完成したのは翌年の十月である。初めの完成時には朝廷、諸大名の祝賀を受け[注5]、義光も「慶長十二未七月、神君駿府江御移之節、参府恐悦、国許ノ土産献上」と、「最上家譜」はその駿府入りを伝えている。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店・平十一年 高木将作)
2、「君臣言行録」(『東京市史稿』)
3、『千代田区史・上巻』(千代田区・昭三十五年)
毛利家文書によると、家臣の普請役割当てを総数2,988人として、十一年正月には1,980余人が萩を出発、これも軍役の一種として藩から補助があるとしても、家臣達にしては大きな経済的負担となり、この江戸勤番を果たすために負債に苦しられ、藩自体も京・堺の商人から多くの金子を工面したという。
4、『山形県史・第二巻近世編上』(山形県・昭六十年)
この書状については、慶長十一年義光が人足を途中で帰国させ、将軍より与えられた感状である。普請延期とはこの年は西日本の大名達による普請であったので、最上勢はすぐ帰国したのではといっているが、「最上少将」についての疑念は示していない。
5、『史料綜覧』(慶長十二年七月条)
駿府城修築ノ功竣り、家康、之ニ移ル、尋テ、太刀・馬ヲ家康ニ賜ヒ、政仁親王モ亦、太刀・馬ヲ賜フ、秀忠・豊臣秀吉及ビ諸大名等、各大名達、冬物ヲ進メテ賀ス、