最上家をめぐる人々♯36 【最上義連/もがみよしつら】:山形の歴史・伝統
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山形を去った最上家が、250年にわたって治めた滋賀県八日市市大森あたりには、今も最上時代の名残が残っている。
丘のふもとの鎮守、大森神社には最上家の助成で建てられた舞殿がある。瓦には最上家の家紋や朝廷から許された菊花・五七の桐の紋が使われ、格調の高さを感じさせる。
菩提寺の妙応寺には、最上家歴代の位牌が並ぶ。
領内の村に伝えられてきた伝統芸能「最上踊り」は、滋賀県指定の無形文化財である。
さて、江戸時代最後の当主は、最上駿河守義連であった。
幕府の交代寄合に列し、文久3年(1863)には大番頭となって大坂在番を勤め、翌年の7月に起こった蛤御門の変に際しては、直ちに上京して皇居の警護にあたった。
明治元年、戊辰戦争のときには朝廷に献金して尊皇の真情を表わす一方、山形の農民に対しては、官軍のために食糧を提供するよう働きかけたという。
新政府がスタートすると、大森に明道館を設けて領民教育に尽力。版籍奉還の後は天皇家御陵の衛士に任じられてその職責を全うし、晩年は京都に出て悠々自適の生活を送った。明治22年没。政府は、従四位を贈ってその功を顕彰した。
なお、現当主、最上公義氏は義連の曾孫にあたる。
■■片桐繁雄著