最上家をめぐる人々♯34 【堀喜吽齋/ほりきうんさい】:山形の歴史・伝統
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最上家臣の中には、才能を認められて領外から登用された人物も少なくない。
堀喜吽もそのひとりで、諸国を兵法修業して“今判官”といわれ、山形に来て義光の側近となっていた。『最上義光分限帳』では「高千石 堀喜吽」とある。
もともとは筑紫(九州)の生まれだから「筑紫喜吽」と史書に書かれたのであろう。上方で兵法を修業して、さらには文化芸能の達者でもあって、それを認められて最上義光に仕えるようになったと推定されるが、前半生の経歴は不明である。
京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席し、義光がなんらかの事情で参加できなかったときにも江口光清と共に1回出席した。計17巻、句数は102句で、最上家臣の中で最も多い。
喜吽の名がはじめてあらわれるのは、文禄2年(1593)6月13日の連歌会である。このときには、主君義光、僚友江口光清とともに列席して5句を採られた。
その一つ。紹巴の後につけたもの。
同じ蓮となほ契らばや 紹由
相思う心は更に浅からず 喜吽
兵法修業のかたわら文化的な教養も身に付けていたのである。
最後の作は慶長5年3月7日。
松風の音もあらしに明かりはり 兼如
苔路分け行く住まひ寂しも 喜吽
慶長5年10月1日、山形西部の富神山付近で壮絶な追撃戦が展開された。
退く上杉、追う最上。戦いは激烈をきわめ、上杉方の戦死者1580余、最上軍も623人が戦死(『羽陽軍記』など)。
この戦いで義光は例の鉄棒を振り回し先頭にたつ。鉄砲の標的になるから前に出すぎるなと注意した喜吽は、逆に「臆病者」と言われ、「臆病かどうか見てくれ」とばかりに走り出たところを、左肩から右胸まで射抜かれて討ち死にした。
喜吽の心配どおり、義光の兜にも敵弾が命中。危うく命を落とすところだった。弾痕のついた兜は、最上義光歴史館に展示され、激戦の模様をしのばせてくれる。
喜吽没後に描かれた山形城内図に「堀道喜」という名がある。喜吽と関係があるようだが、各種分限帳にこの人物名は載せられていない。
■■片桐繁雄著