最上家をめぐる人々♯29 【斎藤伊予守光則/さいとういよのかみあきのり】:山形の歴史・伝統
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〜太閤秀吉からの‘御預け人’?〜
最上義光の生涯を書いた『最上記』(『山形市史 史料編1』収録)の末尾に、家臣団のリストがある。その中に異例の書込のある人物が一人いる。
四千石
太閤より御預け 斎藤伊予守
とあるのがそれである。
4千石といえば、数多い最上家の家臣の中でも、20数位ほど。
最上川舟運の便をはかるために、難所、碁点、隼、三ケ瀬を開削する工事では、責任者となって事業を完成させた。これは、慶長11年のこととされるが、当時出羽にはこうした工事のできる技術者がいなかったため、他国から大勢の石工を呼び寄せて仕事をすすめたという記録が、天童市高擶の願行寺にある。この古文書では、大石田と中野船町の川港を設けたのもこの時とされるから、斎藤伊予はその面でも業績をあげたのだろう。
「最上川を否船(いなぶね・稲舟)が上下するようになったのは義光公賢巧の徳である」とも書かれている。
慶長16年(1611)、義光が病気平癒のお礼に若松観音堂を再建改修したときは、普請奉行を務めた。そのほかにも、最上家の米の売買、新田開発、田畑の検地にも斎藤伊予はかかわっている。
義光時代の分限帳では谷地四千石の城主となっているが、源五郎家信の時代には高玉城5千5百石となっており、最上家が改易された元和8年、領内の城館を接収した伊達家の記録では「高玉之城 斎藤伊予居城、五千石」となっている。義光の信頼あつく、その後家親3年、そして源五郎家信の時代にも、最上家を支える一かどの役職にあったわけだ。
問題は、この人物が「太閤より御預け」だったという記載だ。
大名への「預け」とは、政治犯やその一族が、地位を奪われて諸大名に預けられて監視下におかれる事態をさす。もしこの記載を信ずるなら、さまざまな想像がひろがる。
太閤が亡くなったのは慶長3年である。その後、義光は彼の監視を解き、すぐれた才能を買って、改めてかれを高禄で召し抱え、重要な職務を与えたのであろうか。
そこで想像だが、この斎藤伊予、ひょっとしたら明智光秀の重臣で、本能寺後の戦いで豊臣秀吉にやぶれて自刃した斎藤利三の一族ではなかったか。そういう立場にあった人物なら「太閤よりお預け」もありえる。
もしそうだとすれば、かの有名な春日局(3代将軍家光の乳母)は利三の娘であるから、斎藤伊予とは身内同士ということになるわけだ……。
■■片桐繁雄著