最上家臣余録 【鮭延秀綱 (4)】:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
最上家臣余録 【鮭延秀綱 (4)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (4)】

2、仙北紛争期(天正末)における鮭延秀綱の動向


 天正十八年は最上家にとって一つのターニングポイントとも言うべき年であった。小田原攻略を以って抵抗勢力を沈黙させた秀吉は、その後奥羽諸大名に対する知行割を行った。最上家はその時点で所領を安堵されたと見られるが、それは最上家が全国的な統一政権組織の一部に組み込まれた事を意味した。さらに秀吉は、前田利家・上杉景勝らに奥州仕置を命じ、奥州の内陸中央道沿い、日本海岸沿い、太平洋岸沿いの三手に分けて仕置軍を進発させた。最上家は中央道の先鋒を命ぜられ、鮭延は中央道仕置軍を先導する事になった。仙北情勢に精通し、幾度も仙北地方に攻め入った経験のある鮭延秀綱は、仕置軍の先導役として最適の人物であっただろう。

 九月に入ると、検地に反対した庄内・由利・仙北の国人・土豪衆が一揆を起こして検地の推進を阻む事態となった。仙北進出の機会を窺っていた義光にとって、この一揆鎮圧は恰好の大義名分となったのである。そもそも、惣無事令下にありながら天正十六年に庄内を上杉に切り取られた上、天正十八年に上杉景勝に対して秀吉の朱印状(注20)が与えられ上杉家の庄内支配が追認された事で、最上家の庄内領有は事実上不可能となっていた。ゆえに、最上家がこれ以上領土を拡張するためには、当時未だ支配体制が脆弱であった仙北小野寺領に食いこむ必要があったのである。

 仙北検地における鮭延秀綱の動向及びその周辺の事態の推移を簡単に追ってみると、まず鮭延は一揆鎮圧を名目に寒河江光俊を伴って湯沢城に入城したようだ。十月廿二日付の文書に鮭延の湯沢在陣が記されているので、湯沢入城はそれ以前に行われたものとみられる。

   別而申上候、明日豊後・大和方可指越申候へ共、一刻も急申度候間、
   申事候、湯澤地ニ鮭延殿在陳条、就之地下之者共、機遣令申候、
   色邊殿より御音信候而被罷帰候様ニ御取成可被成之候、
   萬々重而可申上、恐惶謹言、
         横手宿老中
    十月廿二日  惣判
       康道様へ
        参人々御中 (注21)

 それと前後して、日本海側を進んだ上杉・大谷軍も庄内から由利を経て仙北に入った。上杉勢は大森城に入城し、色部長真がその責任者となっている。最上勢の湯沢在陣に危機感を抱いた小野寺家老達は、当主小野寺義道の弟康道をして色部長真に鮭延の退去を働きかけたことがこの書状から読み取れる。なお、小野寺は寛永十年に幕府に対して提出された書き上げにおいてその不当性を主張しているが、その書付によれば、鮭延は「湯沢城の城番が一揆を起こした」という大谷吉継の言を根拠として湯沢城に入ったようである。ともあれ、小野寺からの通達を受けた色部長真は、鮭延に幾度か退去する旨伝えたようであるが、残念ながらその書状は残存していない。ただ、その伝達に対する鮭延の返答が計三通残っている。十月廿三日付の返答(注22)においても「大谷吉継の指図によってやむなく在陣した」との主張があり、実際にそういった命令があったかどうかは不明であるが、鮭延が検地代官の権威を大義名分とし湯沢に駐留したことは確かなようである。

 この数度にわたる色部の働きかけに鮭延は態度を軟化させ、同月廿五日付の色部長真に対する返答(注23)では「近く帰国する」と伝えるに至った。この頃になると仙北の一揆も下火になったと見られ、湯沢在陣の理由を失いかけた鮭延ら最上勢はほどなく帰国の途についたようである。しかし、その後、上洛中の義光による工作が効を奏したとみえ、翌天正十九年一月に発給された小野寺氏に対する宛行状(注24)には「上浦郡三分二、三万千六百石」との記述があり、のこり三分の一は最上氏に対して与えられたものと考えられる。秀綱はこの新領地の管轄を義光から任せられていたようで、上浦一郡が最上氏の所領になった旨郡内に伝達する事を色部に対して知らせている(注25)が、色部は京都及び大谷吉継よりその報が無いとしてそれを否定した(注26)。当地の土豪衆もその報せに驚き、小野寺領内に退去する者が少なくなかったという。それに対して鮭延秀綱・氏家守棟は、色部長真にその対策を講じるよう主張している(注27・28)。公権力を背景に交渉を進める最上に対し、ついに色部は屈し、その土民達の帰還を約定したのである(注29)。だが、この強硬な上浦郡(雄勝・平鹿郡)領有が火種となってしばらくの間仙北地域は最上軍と小野寺軍の衝突の舞台となるに至った。

 ここにおいて、鮭延秀綱は奥州検地紛争において一貫して主責任者の立場にあった事が注目される。最上家にとって仙北問題は当時の最重要案件とも言うべきものであり、一連の紛争において一時的とはいえ小野寺氏の重要拠点であった湯沢城を占拠し、翌年には上浦郡の領有を色部―上杉氏に認めさせた功績は最上家にとって多大なものだったと推測される。鮭延秀綱は、この時点で仙北問題のスペシャリストとして最上家内に大きな存在感を示していたと見てよいのではないだろうか。

 その後幾度かに渡って繰り返された仙北侵攻においてもその認識は継続しているように見える。文禄以後、最上勢は数度にわたって仙北へ侵入している。根本史料は存在せず、『奥羽永慶軍記』の記述を頼りにせざるをえないが、

   最上義光は山北小野寺義道を討んと、幾度か勢を催し攻るといへども、
   (中略)
   左あらば勢を指向んと、三男清水大蔵大輔義之・楯岡豊前守義満ヲ
   大将として、相従ふ兵には一族延沢遠江守光信・長瀞内膳忠・
   上野山越後守・鮭延典膳・(後略)(注30)
  
  (前略)去程に最上の先手鮭登典膳四ッ目ノ旗押立、(後略)(注31)

 天正末か文禄初めかは判然としないが、いずれにせよ清水・楯岡の最上一族衆が大将を務め、鮭延が先陣を承っていたことがわかる。年次は下って文禄四年の最上勢による湯沢攻めの記事には、

   文禄四年八月最上義光の臣鮭登先達て下りけるが、
  (中略)先是を攻んとて、最上よりの大将に楯岡豊前守
   先手は鮭登典膳其外小国・延沢(後略)(注32)

 とあり、文禄四年の仙北攻めにおいても楯岡が大将、鮭延が先陣という形は変わっておらず、数度に渡ったとされる仙北侵攻では、かかる人材運用が固定化された可能性を指摘できる。この点から見ても、文禄年間に義光は、鮭延秀綱に対して、最上家の仙北問題における最重要家臣の一人として位置付けを認めていたと考えられるのである。

 余談となるが、興味深い記述が『奥羽永慶軍記』「最上義光・伊達政宗閉門事」に存在する。豊臣秀次に連座させられた駒姫の死を恨みに思った最上義光が、伊達政宗と語らって秀吉に対して謀反を起こそうとしているという讒言があり、最上・伊達が閉門させられたという記事であるが、その中で、「両家の郎等延沢能登守・鮭登典膳・遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎等の傍若無人の者共一揆を起し、所々の手を定め京・大坂を焼払ひ、」(注33)という噂が京・大坂の民衆達の間に流れた、という記述がある。この記述が事実かどうかは定かではないが、遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎といえば伊達政宗の側近であるから、もし実際にこのような噂が流布していたとすれば、鮭延は当時の世間一般の認識として「最上家屈指の家臣」であると同時に「延沢能登と並ぶほどの剛勇の持ち主」と見られていたのであろう。
<続>

(注20) 「上杉家文書」八月一日付豊臣秀吉朱印状(『山形県史史料編1』)
(注21) 「色部文書」 天正十八年十月廿二日付横手宿老中書状案(『同上』)
(注22) 「同上」 天正十八年十月廿三日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注23) 「同上」 天正十八年十月廿五日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注24) 「神戸・小野寺文書」天正十九年一月十七日付豊臣秀吉宛行状(『秋田県史史料 古代・中世編』)
(注25) 「色部文書」 天正十九年二月八日付鮭延愛綱書状(『山形県史史料編1』)
(注26) 「同上」 天正十九年二月十一日付色部長真書状(『同上』)
(注27) 「同上」 天正十九年二月二十六日付氏家守棟書状(『同上』)
(注28) 「同上」 天正十九年二月二十八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注29) 「同上」 天正十九年二月晦日付色部長真書状(『同上』)
(注30) 『復刻 奥羽永慶軍記』 最上勢、山北境を攻破るの事(無明舎出版 2005)
(注31)  同上
(注32) 『同上』 湯沢落城の事(同上)
(注33) 『同上』 最上義光・伊達政宗閉門の事(同上)


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2010.03.18:Copyright (C) 最上義光歴史館
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