最上家臣余録 【鮭延秀綱 (2)】:山形の歴史・伝統
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最上家臣余録 【鮭延秀綱 (2)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (2)】
本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。
なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。
1、天正期の鮭延秀綱
最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。
鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。
この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。
最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、
天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、
天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、
山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守
軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子
小国日向守光基ト名ノリケリ(注13)
とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。
鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣
、及進陣候キ、
其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴
指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
五月二日 義光(鼎形黒影印)
庭月殿 (注14)
とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。
ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。
<続>
(注8) 『真室川町史』(真室川町 1997)
(注9) 『同』
(注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』)
(注11) 前掲 粟野氏論文(1983)
(注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』)
(注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』)
(注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』)
(注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など
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【鮭延秀綱 (2)】
本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。
なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。
1、天正期の鮭延秀綱
最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。
鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。
この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。
最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、
天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、
天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、
山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守
軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子
小国日向守光基ト名ノリケリ(注13)
とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。
鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴
指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
五月二日 義光(鼎形黒影印)
庭月殿 (注14)
とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。
ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。
<続>
(注8) 『真室川町史』(真室川町 1997)
(注9) 『同』
(注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』)
(注11) 前掲 粟野氏論文(1983)
(注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』)
(注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』)
(注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』)
(注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など
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