最上義光に殉じた寒河江十兵衛:山形の歴史・伝統
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最上義光に殉じた寒河江十兵衛
最上義光に殉じた寒河江十兵衛
(一)
慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。
(二)
「寒河江家略系」
十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄
十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。
『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」
このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。
(三)
しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。
光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。
勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。
河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。
(四)
現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。 十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。 中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。
このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。
このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。
天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」
■■小野未三著
2009.07.16:Copyright (C)
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(一)
慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。
(二)
「寒河江家略系」
十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄
十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。
『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」
このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。
(三)
しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。
光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。
勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。
河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。
(四)
現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。 十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。 中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。
このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。
このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。
天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」
■■小野未三著