勝天37 『織田家は天童へ、上杉家は米沢へ』:山形の歴史・伝統
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景勝 「うむ。謙信公も気にしておる。」
兼続 「ところで、気になったのが、織田家の最後でございます。」
景勝 「織田信長は、本能寺で死んでしまったではないか。」
兼続 「その後、でございます。」
景勝 「息子の信雄(のぶかつ)は、家康とともに秀吉を攻めたではないか。」
兼続 「その後、でございます。」
景勝 「誰の時代じゃ。」
兼続 「信浮(のぶちか)の代でございます。」
景勝 「そのような者は、わしは知らぬ。何者じゃ?」
兼続 「信雄から数えて9代目でございます。
転封によって出羽高畠の藩主となり、さらに陣屋の移転にともなって出羽天童藩の藩主となったのでございます。
そのまま、織田家は天童にて明治時代の廃藩置県を迎えたそうでございます。」
景勝 「ほほぉ。上杉は米沢。織田は天童か。時を越えて山形に集合したわけじゃな。詳しく申してみよ。」
兼続 「信長の死後、二男信雄は尾張・伊勢・伊賀・100万石の領主となりました。
しかし、天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅んだ後、徳川家康は三河・遠江・駿河など東海5カ国から関東に移封され、信雄は織田家旧領の尾張から家康旧領への移封を命じられました。」
景勝 「秀吉どのの仕置きじゃな。」
兼続 「信雄はこれを拒否。
怒った秀吉は、信雄を改易し、下野烏山(一説に那須とも)に流罪に処しました。」
景勝 「信雄にとっては、秀吉は父の家来だったが、見誤ったな。」
兼続 「大阪夏の陣後の元和元年(1615)、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられ、4男信良に上野甘楽郡の領地を孫・信昌に小幡2万石を分け与え、信雄自身は京都に留まり、茶と鷹狩りに明け暮れ、寛永7年(1630)死去しました。
ちなみに、信雄死後、大和国宇陀郡の領地は、5男の高長が継ぎ、織田柏原藩として10代にわたって柏原の地を治め、明治の廃藩を迎えておりまする。」
兼続 「そして、写真の神社でございます。」
景勝 「これはどこじゃ。」
兼続 「天童の舞鶴山の健勲神社にございます。」
景勝 「誰がおるのじゃ。」
兼続 「祭られているのは、織田信長にございます。健勲神社は、日本には京都と天童の2か所にしかございません。」
景勝 「上杉は、米沢で川中島の合戦を楽しみ、信長は、毎年人間将棋を楽しんでおるわけか。」
兼続 「これも何かのご縁でございますな。」