最上家臣余録 【鮭延秀綱 (1)】:山形の歴史・伝統

山形の歴史・伝統
最上家臣余録 【鮭延秀綱 (1)】


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 

【鮭延秀綱 (1)】

 本稿において、最初に取り上げる最上家家臣は「鮭延秀綱」である。
 鮭延秀綱は、最上家家臣の中でも比較的史料の残存状況がよい人物であると同時に、長谷堂合戦での活躍や、海音寺潮五郎『乞食大名』などの出版物で広く名前が流布している。
『最上義光分限帳』(注1)を見る限りでも「一、高壱万千五百石」と最上家内でも有数の知行地を、現在の真室川町周辺に領していた事が伺え、最上家領北方の押さえとして厚遇されていた人物であることが読み取れる人物だ。

 さて、本論を進める前に、鮭延氏に関する代表的な先行研究をいくつか紹介しておきたい。
本格的な鮭延氏研究の嚆矢としては、『増訂最上郡史』(注2)が挙げられるだろう。著者の嶺金太郎氏は大正年中に最上郷土史関係の書物をいくつか世に送り出しているようだが、その集大成ともいうべきものがこの『増訂最上郡史』である。『増訂最上郡史』は、基本的に文書史料・軍記物史料を中心的に用いた編年的な記述スタンスをとっている。鮭延氏に関しての記述を見ると、まず天正年間の周辺の小野寺・武藤そして最上との関係を描き出すことに力を注ぎ、その後最上家の動向に沿ってその改易までの最上郡、とりわけ鮭延について史料を分析・考察している。当時ではまだ未出の文書史料もあり、現在の研究段階から見れば疑問に思う点も少なくはないが、史料の収集のみならず、それを分析したという点において、それ以前に出版された郷土史関係出版物とは一線を画すものであった。
『増訂最上郡史』出版以前にも松井秀房氏『最上郡史』や鮭延瑞鳳氏『鮭延城記』等の郷土史出版物において同様な郷土史史料が扱われているが、『最上郡史』はあくまで収集・分類に終始したものであったらしく、『鮭延城記』は記述に疑問点が多いという問題を抱えている。

 昭和期の中頃になると県市町村史の出版が盛んになる。山形県内で出版された県市町村史の中でも、特に『山形県史』『山形市史』『新庄市史』『真室川町史』が鮭延についての記述に詳しい。内容的には『増訂最上郡史』の記述を押し進めた形の記述となっているが、新出の史料もあり、最上家という枠組の中で鮭延の動向を概観する状況が整った時期であるだろう。なお、『新庄市史』では「鮭延越前守侍分限帳」を用いて、鮭延氏の領国支配形態を探ろうとしている点が興味深い。

 個々の論文に関しては、粟野俊之氏『出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 』上・下(注3)が秀逸である。『山形県史』における中世最上地域の具体的な記述の欠如を踏まえて、最上地域の中でも史料の残存状況がよい鮭延郷をフィールドとして中世最上地域の考察をした論文である。上編では、その考察の前段階として鮭延氏関係史料の再検討を試み、とりわけ鮭延氏の出自に関する史料検討に力が注がれている。鮭延氏の成立に関する史料からは鮭延氏が近江佐々木氏を租とする決定的な証拠は見つけられず、また大正期に鮭延瑞鳳氏の手によって書かれた鮭延氏系図を始めとする鮭延氏の出自に関する史料は矛盾点が多く、基礎史料として扱うことは難しいと断じている。その上編を踏まえて、下編では南北朝・室町期から鮭延秀綱が最上氏に降る天正期までの鮭延郷、特に鮭延氏の動向を通観して問題点を拾い、鮭延氏の出自・最上入部時期・最上氏鮭延経略戦時の隣国陸奥大崎氏との関係を考察している。
 
奥山譽男氏「鮭延佐々木氏の成立について ―小野寺義道文書から―」(注4)も鮭延氏の成立について論じたものであるが、この論文においても史料の不足というジレンマは表れており、論者自身が「鮭延佐々木氏の成立に関する根本史料の無い現在、いろんな見方が許されるだろうし」と断りをつけた上での論述という形をとっている。『最上記』『奥羽永慶軍記』『奥羽軍談』などの軍記物史料と「小野寺遠江守書状」という限られた書状史料を用い、鮭延氏が佐々木家の数多い分流のどこから出て出羽に移り住んだのか、との論を積極的に展開しており、「もともと鮭延郷は小野寺氏の馬産地であった」と結論付けている。
 
松岡進氏「最上郡域における城館跡の類型論的考察」(注5)にも鮭延に関する記述が存在する。表題の通り最上地域の中世城館を類型論的に分類し、そこから最上地域における最上家の影響を読み取ることに主眼を置いた論文である。鮭延氏に関して、考古学的見地と歴史学的見地をすり合わせた考察を行った点は斬新な切り口と思われる。
 
小野寺彦次郎氏『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』(注6)の中にも鮭延氏に関する記述が多少存在する。横手に割拠した小野寺氏に対して、鮭延氏は元々従属関係にあった故にその繋がりは深い。ゆえに、横手小野寺氏の動向を論じる上で切っても切り離せない間柄であるということで鮭延氏が取り上げられている。佐々木氏が小野寺氏を頼って下向し、鮭延郷に土着した時期についての解説や、永禄〜天正初期における鮭延・武藤・最上の動向について小野寺氏に主眼を据えた視点で論を展開しており、他の論文と違った着眼点から鮭延氏を論じている点は興味深い。
 
最上家改易後、鮭延秀綱が多くの陪臣達と共に「御預」となった佐倉藩土井家(後に古河へ転封)において、如何に遇されたかを追跡したのが小野末三氏(注7)である。最上家改易に関わる先行研究を参照しながら、鮭延が五千石という厚遇で土井家に仕官した背景やその後の陪臣の処遇などを紹介している。
 また氏は、同著において、鮭延のみならず他の最上家家臣が改易後どのように身を処したかを詳細に考証している。改易後の最上家旧臣団に関わる考察を行う場合の基礎文献として、高い評価をすべきであろう。
<続>


(注1) 『山形市史』最上家関係史料編。
(注2) 嶺金太郎『増訂最上郡史』(最上郡教育会・新庄市教育委員会 1972 原刊 1929)
(注3) 『山形県地域史研究』8・9号(山形県地域史研究協議会 1983)
(注4) 『同』23号 (同 1998)
(注5) 『さあべい』16号 (さあべい同人会 1999)
(注6) 小野寺彦次郎『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』 (創栄出版 1993)
(注7) 小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)


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2010.03.02:Copyright (C) 最上義光歴史館
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