ヤマガタンver9 > 地域のタスキ渡し

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▼地域のタスキ渡し

地域のタスキ渡し/

長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。他方、長井市を含む、山形県南部の置賜地方(3市5町)では食やエネルギーなどの地域自給をめざす置賜自給圏づくりが進んでいる。
私はそれらの事業に参加してずいぶんになるが、農作業の合間をぬってのとても忙しい日々が続いている。そんな私を支えてくれるのは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。
私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。
76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。
「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。
これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」
私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の農民となった。
村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。私はその中で守られ、生かされていた。楽しみの先送り・・こんな言葉が浮かんだ。
その日から、私は風景があたたかな体温をともなったものとして見えるようになった。ようやく「地域」がわかった。「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。
その後の、農薬の空中散布反対の取組み、そしてレインボープランと・・・。私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にかかっている「タスキ」への自覚である。


・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。
趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。

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