「Mr.PO」の思想と行動(6)…提言〜「銀河鉄道始発駅」構想:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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「Mr.PO」の思想と行動(6)…提言〜「銀河鉄道始発駅」構想


 

 「世界でも珍しい川の上の市場は、東民らしいヒュ−マニズムの架橋でもある」―と畏友(いゆう)のルポライタ−、鎌田慧さんが代表作『反骨―鈴木東民の生涯』(新田次郎賞、講談社)の中で書いている。文中の「東民」こと「鈴木東民」(1895―1979年)は戦前ジャ−ナリストとして、ドイツを拠点に活躍。徹底した反ナチス報道で追放され、敗戦後は読売新聞大争議を指導した。鎌田さんが“ヒュ−マニズムの架橋”と呼ぶのは、東民がふるさと・釜石市長に当選した直後に手がけた「橋上市場」のことを指している。

 

 波乱万丈の半生を送った東民は1955(昭和30)年、釜石市長に初当選。3期務めて落選した直後の市議選に挑戦して当選を果たすなど、文字通り「反骨」政治家の道を歩んだ。市長当選の直後、一通の陳情書が届いた。近郷近在から野菜や魚を持ち寄り、露店を開いていた行商人はいつも地主から追い立てを食らっていた。「安定した商いを」という切なる願いだった。かつて、イタリア・フィレンツェで見た、宝飾店などが立ち並ぶヴェッキオ橋の光景が目の前によみがえった。市中心部を流れる甲子川の大渡橋に幅12叩長さ110辰硫虻付きア−ケ−ドが作られた。野菜や鮮魚、日用雑貨、食堂など約50店が軒を連ねる全国初の「橋上市場」は昭和33年に産声を上げた。

 

 「公道の橋の上での私的な営業活動は河川法上、許可するわけにはいかない」―。案の定、法の壁が立ちふさがった。ドイツ時代に培った「反骨」精神の気迫に圧倒されたのであろうか、国側は「聞かなかったことにする」として、黙認したというエピソ−ドが語り伝えられている。最盛期、1日1万人もが訪れ、観光名所としても知られた橋上市場は2003(平成15)年、橋の老朽化で閉鎖されるまで45年間も地元経済を底支えした。官立医学校(現在の東大医学部)を卒業した父親は3人の子どもに「民」いう字を当てている。「東民」はその長男。「自由民権運動のほてり、といったようなものを感じとることができる」と鎌田さんは同書に書いている。

 

 もうひとつの「橋上」物語が目の前で進行している。「Mr.PO」(上田東一市長)が強引に進めるJR花巻駅の「東西自由通路(駅橋上化)」である。その不合理性については当ブログで繰り返し指摘してきたので、ここではそれ以上の言及はしない。それはさておき、「同じ最高学府(東大)を卒業し、海外生活の経験も長い2人(そういえば、名前も「東民」と「東一」と似通っている)なのに、どうしてその発想に天と地ほどの隔たりがあるのか」―。学歴と“資質”は直接の関係はないと思いつつ、なおこの”雲泥の差“が私の素朴な疑問である。

 

 「Mr.PO」が開会中の6月定例会に提案した「駅橋上化」案によれば、線路をまたぐ東西自由通路の完成によって、現在東口と西口を結んでいる地下通路(約160叩砲撤去されるほか、駅舎自体も建て替えられることになっている。この一帯は30年以上も前の平成元年度から7年間にわたり、東西にまたがる「花巻駅周辺地区土地区画整理事業」(10・7ヘクタ−ル)として、約6億円の事業費を投じて整備された。“レインボ−プロジェクト”と名づけられたように、郷土が生んだ童話作家、宮沢賢治の物語世界の再現を目指したまちづくりである。いま、そのイメ−ジが根底から破壊されようとしている。岐路に立たされつつある「賢治ワ−ルド」界隈を久しぶりに散策してみた。

 

 ステンドグラスのメルヘンチックな駅舎を出ると、21本のステンレス製のポ−ルが目に飛び込んでくる。「風の鳴る林」…先端に取り付けられている風車が風が吹くたびに回る。「どっどど・どどうど・どどうど・どどう」(『風の又三郎』)という賢治作品のモチ−フにすっぽりと包まれてしまいそう。右手に目をやると、賢治が「ドリ−ムランド」(夢の国)と呼んだ爛ぁ櫂魯函櫂“を描いた巨大壁画が。その横では名作『銀河鉄道の夜』を模したからくり時計「銀河ぽっぽ」が時を刻み、賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」のアレンジ曲が流れるたびにジョバンニとカンパネルラが登場する。そして、夕闇が迫るころ、今度は駅から徒歩約4分の北側にある巨大擁壁(高さ10叩長さ80叩に宇宙を飛ぶ「銀河鉄道」の幻想的な光景が浮かび上がる。なんとも素晴らしい仕掛けではないか。

 

 ところで、賢治より1歳年上の東民は生前、賢治と意外なところで接点があった。「赤門前」(東大本郷キャンパス)での邂逅(かいこう)である。「宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった。そのころ東大の赤門前に、『文信社』という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。『文信社』は大学の講義を謄写して学生に売っていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙を切ることであった。(中略)何かの話からかれが花巻の生まれで、土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。(中略)その袴(はかま)の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった」(草野心平編著『宮澤賢治研究』所収の「筆耕のころの賢治」)―

 

 開会中の市議会が「駅橋上化」問題で揺れる中、「Mr.PO」は地下通路を利用する高校の同窓会やPTAの関係者から「防犯上で不安がある」と改善要望があった(この要望自体がいまや、“やらせ”であったことが明らかになっている)として、これまで放置してきた行政の不作為を棚に上げ、防犯カメラの設置を約束した。さ〜て、大先輩の東民ならどう対処するだろうか。草葉の陰に声をかけてみたくなった。きっと、こんな答えが返ってくるだろうと思った。

 

 「そんなこと、聞く方が野暮というもんさ。地下通路こそが賢治の異界ム−ドを演出する最高の舞台装置。『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』(川端康成『雪国』)…じゃないけれど、トンネルを抜けると、そこは賢治ワ−ルドだった。これしかないじゃないの」―。さすが、ヴェッキオ橋を見習って橋上市場を実現した東民のことはある。悪夢なような「橋上化」物語の先に少し希望が見えたような気がした。パっと夢がふくらんだ。「そう、花巻駅が銀河鉄道始発駅だとしたら、その終着駅は爛ぁ櫂魯函櫂嵜渊餞杼“っていうのはどうだろうか」。賢治が創作の舞台のひとつに選んだ「東公園」(旧新興製作所跡地の花巻城址)はいま、まちのど真ん中に「Mr.PO」の負の遺産ともいえる廃墟をさらしている。その愚(ぐ)を繰り返してはなるまい。実はその東公園跡地に「賢治まるごと図書館」―つまり”イーハトーブ図書館”を立地するのが私のひそかな夢なのである。

 

 

 

(写真は幻想的な「銀河鉄道」の壁画。米国在住のダンサ−を案内した際、「ワンダフル」を連発して、いつまでも立ち去ろうとしなかった=インタ−ネット上に公開の写真から=花巻市愛宕町で)

 

 

 

《追記》〜鈴木東民の賢治“交友”余話

 

 

 東民と賢治との交友は実は一般的にはあまり知られていない。長文になるために本文で割愛した部分を以下に再録したい。青雲の志に燃える2人の青年の生きざまがじかに伝わってくるようである。

 

 「アルバイト学生だったわたしはそこへ(文信社)ノオトを貸して1冊につき月8円、ガリ版で切った謄写の原紙を校正をして、4ペエジにつき8銭の報酬をうけていた。かれ(賢治)はきれいな字を書いたから、報酬上は上の部であったろうと思うが、それでも1ペエジ20銭ぐらいのものだったろう」

 

 「そのころわたしの母は宮沢家のすぐ近所、同じ町内に住んでいた。1921年の夏休みに、母のもとに帰ったわたしは、宮沢家に招待されて御馳走になったことがある。学生のくせにお酒まで遠慮なしに頂戴した。その時のお給仕役がかれで、不器用な手つきでお銚子などを運んで来たものである。もちろんかれは一滴も酒は呑まなかった。若いときのこととはいえ、今その時のことを回想して、わたしは自分の無作法さに汗の流れる思いがする」

 

 「もしこれが(腰にぶら下げた原稿)出版されたら、今の日本の文壇を傾倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引き受けてくれる出版業者がいない。しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑をうかべながら語っていた。そういうときのかれの瞳はかがやき、気魄にあふれていた」(いずれも「筆耕のころの賢治」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2021.06.21:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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