政界の”狙撃手“と革新市長:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
政界の”狙撃手“と革新市長


 「憲法をないがしろにしたこの法案を通すことは、市民の命を守らなければならない市長として断じて容認することはできません」―。「安全保障関連法」(安保法制=2015年9月30日公布)の国会審議が大詰めを迎えていた約2年半前、私は花巻市議会9月定例会である首長の発言を引用しながら、「国政と地方自治」との関わりについて上田東一市長の見解をただした。件(くだん)の首長とは兵庫県宝塚市の中川智子市長(現在3期目)である。冒頭の文章は中川市長が広報たからづか(2015年8月号)の「市長からの手紙」に掲載した意見表明である。今年1月26日に逝去した元自民党幹事長の野中広務さん(享年92歳)が実は中川市長の“政治の師”だったことを初めて知った。「政治」の本来のあるべき姿を教えられたような気がした。

 

 「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わりにします」―。「米軍(駐留軍)用地特別措置法改正」(1997年)の採決に際し、特別委員会の委員長だった野中さんが異例の発言をした。「不穏当な発言」として、会議録から一部が削除された。発言に先立ち、野中さんは沖縄での辛い体験を披歴している。「タクシ−の運転手が突然、ブレ−キを強く踏んで車を停め『あそこのサトウキビ畑で私の妹が殺された』と言ったかと思うと、急に泣き出した。号泣はしばらく止まらなかった。しかも、やったのは米軍ではなかった(つまり、旧日本軍だった)」

 

 朝日新聞編集委員の秋山訓子さんがこの先の物語について、紹介していた。「当時、これを聞いて感動のあまり、矢も盾もたまらず野中事務所に走っていった国会議員がいた。社民党の一年生議員だった中川智子氏だ。ちょうど野中氏も自室にいて、中川氏の勢いに驚かれながらも会うことができた。『私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです』。夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。『これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい』。携帯電話の番号があった」(2月15日付「朝日新聞」ザ・コラム=要旨)―。政界の”狙撃手“と恐れられていた実力者と物おじしない「おばさんパワ−」との不思議な邂逅(かいこう)だった。

 

 「いい話だな」と思った。その背後にある種の政治的な思惑があったとしても、何か思想・信条を越えた「同志」としての絆(きずな)みたいなものを感じたからである。互いにそれを支えたのは、弱者に寄り添う眼差しなのだろうと思う。後日談は続く。「中川氏は薬害ヤコブ病の患者救済や介助犬といった身体障害者補助犬法などに取り組んだ。野中氏だけでなく多くの与党の実力者に声をかけて巻き込んで、辛抱強くことを進めて法律を作った。2期務めて2003年の選挙で落選後、国政を去る。2009年、宝塚市長選に出馬した。市長が連続して収賄で逮捕という前代未聞の出来事の後だった。野中氏に相談すると『やりなさい』と背中を押してくれた。応援にも来てくれた」(同上コラム)

 

 「安保法制」国会の際、中川市長は全国市長会の総会の場でこう呼びかけた。「国民の6割が慎重審議を求め、8割が十分な説明がなされていないと感じているという世論調査もある。市長の最大の責任は市民の命を守ること。市長会として一切、議論しないことは将来に禍根を残す」(2015年6月11日付「朝日新聞」)。この会議に同席した、一方の上田市長は私の質問に対し、当時、以下のように答弁している。

 

 「地方自治法第1条の2において、地方公共団体は住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものと定められている。この規定により、防衛、軍事、安全保障などは国の所管であり、地方公共団体にはその権限はないと理解している。安保法制のかなめである沖縄の米軍基地、とくに喫緊(きっきん)の課題である米軍普天間飛行場の辺野古移転問題と地方自治のかかわりについては、花巻市域内の問題でない以上、憲法と地方自治法に定める市の権限と役割から、当市の地方自治に直接関連すると判断することはできないものと考える」(平成27年9月定例会会議録から=要旨)

 

 野中さんが亡くなった9日後の今年2月4日、米軍普天間飛行場の「辺野古」移設(新基地建設)の是非が問われた名護市長選で、自民党や公明党など政府与党が推す基地容認派が新市長に選ばれた。野中さんが言い残した“遺言”などはどこ吹く風、「軍靴」の響きがふたたび、遠音のように覆(おお)い始めた。この時を待つかのようにして建設工事はさらに、加速されつつある。ヤマト(本土)の自治体のほとんどは相変わらず、見て見ぬふりを決め込み、永田町界隈は「一強多弱」という名の大政翼賛会に成り果てた。政治家としての使命感に燃えた同志的な結びつきはもう夢のかなたにかすんでしまったかのようである。

 

 野中さんは自らが被差別部落の出身であることを隠さなかった。「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」―と差別感情丸出しの発言をしたのは麻生太郎・副総理である。実はこの人の系列である麻生財閥が経営した「麻生炭鉱」(福岡・筑豊)は強制連行した朝鮮人を酷使した「圧政ヤマ」として知られる。閉山後、炭鉱跡地のあちこちから朝鮮人を含む遺骨がたくさん出てきた。炭鉱長屋の土壁から人骨がにゅっと、飛び出していたという信じられないような出来事もあった。私自身、その現場を取材した一人である。

 

 

 

写真は在りし日の野中さん。「ハト」派的な一面も兼ね備えていた=インタ−ネット上に公開の写真から)


この記事へのコメントはこちら
題名


本文


作成者


URL


画像

編集用パスワード (半角英数字4文字)


 ※管理者の承認後に反映されます。
ゲストさんようこそ
ID
PW

 合計 40人
記事数
 公開 2,892件
 限定公開 6件
 合計 2,898件
アクセス数
 今日 1,439件
 昨日 2,770件
 合計 8,118,805件
powered by samidare
system:samidare community