85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
85年ぶりの帰還―アイヌ遺骨…一方では”稲造給食”!?


 

 「私のコタン、私の村/お母さんのそばへ、お父さんのそばへ/海をこえて山をこえて/鳥のように飛んでいきたい」―。「ヤイサマ」(即興歌)の調べに誘(いざな)われるようにして、白布に包まれたアイヌの遺骨がコタン(ふるさと)の墓地へと向かっている…。「85年ぶりの帰還」(藤野知明監督、2017年)と題された短編ドキュメントは、研究用に暴(あば)かれた先祖の霊がやっと墳墓の地に戻るまでを記録した作品である。確認されているだけで、全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。全世界に散らばったアイヌなど先住民族の遺骨返還運動はようやく緒(ちょ)についたばかりである。

 

 2012年9月、北海道浦河町杵臼(きねうす)コタン出身の城野口ユリさんや小川隆吉さんら遺族3人が北海道大学を相手に、遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求める裁判を札幌地裁に起こした。当時、同大医学部では千体以上が確認され、敷地内の「アイヌ納骨堂」に保管されていた。約30年前、城野口さんは病床の母親に呼ばれた。「ユリ、オラはきっとあの世でご先祖さまに『オテッキナ』(アイヌ語で「叱られる」の意)される。エカシ(おじいさん)やフチ(おばあさん)、アチャ(父)、ハポ(母)のお骨を持ち去られたのを、ついに取り戻せなかったから…。代わりにユリ、ご先祖さまのお骨を必ず、取り返してくれ」―。これが遺言になった。

 

 提訴から4年後の2016年3月、大学側と和解が成立。12体分の返還が決まった。しかし、この“勝訴”を知らないまま、城野口さんは82歳で旅立った。わずか25分間の映像の中には、城野口さんがアイヌの言葉で歌う「ヤイサマ」や母親の遺言を切々と訴える姿が残されている。もうひとりの原告、小川さんには数十年前にお会いしたことがある。戦時中、北海道の炭鉱や土木現場には強制連行された朝鮮人がたくさんいた。過酷な労働に耐えかねて脱走が相次いだ。アイヌのコタンでは脱走者をこっそりとかくまい、衣類や食事を与えた。「アイヌと朝鮮人には互いに溶け合う気持ちが強かったんだよ。実はオレにも朝鮮の血が流れているんだ」とその時、小川さんはそう口にした。虚を突かれた。

 

 当時50代だったエカシはもう81歳に。あれからすでに30年以上の歳月が流れたのである。カムイノミ(神への祈り)や「イチャルパ」(先祖供養)…。アイヌプリ(伝統的なアイヌの作法)に従って土に還っていった霊たちに向かい、小川さんは「うれしいよ。ありがとう」と顔を崩した。この表情を見ながら、一方の私は「この受難も元をただせば…」といたたまれない気持ちになった。

 

 地元・花巻の偉人伝の中に「佐藤昌介」(1856年−1939年)と「新渡戸稲造」(1862−1933年)の名前が刻まれている。当地出身の佐藤は北海道帝国大学(現北海道大学)の初代総長で、「北大の父」と呼ばれる。『武士道』で知られ、国際連盟事務次長を務めた新渡戸の先祖はかつて当地に居住していた。しかし、この2人が北大の前身である札幌農学校時代に「殖(植)民学」を講義していたことは余り知られていない。いや、地元にとっては「タブ−」のひとつなのかもしれない。19世紀、欧米の学者たちが受刑者や先住民族の遺骨を集めるようになり、日本で中心的に収集を担ったのが北海道大学だった。その先導役を果たしたのがこの2人である。

 

 「新に農業を営むへき場所は、我北海道を措(お)いて他にあらさるなり、夫(そ)れ北海道の殖民は、即ち内国殖民なり…」という記述が佐藤の講義日誌に見える。井上勝生・北海道大学名誉教授(日本近代政治史)はこう書いている。「初期講義ノ−トから分かることは、(佐藤が)ニュ−ジ−ランド先住民族の土地十分の一保留法や、アメリカ合衆国インディアン保護法などを詳しく講義していた事実である。(講義ノ−ト)『殖民地政府の土蕃(どばん)に対する攻略』に記されていた。…当時の先住民族政策の最新知識であった」(『明治日本の植民地支配―北海道から朝鮮へ』)

 

 さらに、新渡戸は「北海道の殖民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ民族が、憶病で消滅に頻(ママ、「瀕=ひん」の間違いか)した民族だったからである」(『新渡戸稲造全集』第2巻)と書き残している。この点について、井上さんはこう指摘する。「この頃(1895年)の形質人類学では、欧米の影響を受けて、文明発展史や民族の優劣と関連させて、頭骨の形の解剖学的比較研究が、最新の学問として流行していた。…新渡戸は、頭骨の比較研究に知識と強い関心を持っていた」(同書)

 

 小川さんらの「遺骨返還」訴訟がきっかけとなり、その後も同様の裁判が相次ぎ、和解―返還が実現している。今年1月26日にはアイヌの有志団体が札幌医科大学と北海道に36体の返還を求めて提訴した。一方、昨年8月にはドイツ国内に保管されていたアイヌの頭骨1体分が返還された。海外に持ち出された遺骨が公式に返還されたのは初めてである。また、オ−ストラリア国内の博物館にも3体が保管されていることが判明しており、豪政府も返還を視野に入れた交渉に立ち上がっている。このほか、英国や米国でも存在が確認されている。

 

 和解成立後の集会で、小川さんはこう発言した。「人類学者が沖縄から持ち出した琉球人の遺骨も返還されなければならない」―。その眼差しは本土(ヤマト)を飛び越え、もう沖縄へと向かっていた。「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」(琉球大学内)は今年1月27日、アイヌ民族と連帯する、以下のような声明文(要旨)を発表した。

 

 「京都大学総合博物館に所蔵されている『百按司(むむじゃな)墓遺骨』の持ち出しは、門中(琉球の親族関係)関係者、地域住民などの了解を得たものではなかった。遺骨は日本政府による琉球の植民地化過程で奪われたのであり、人間としての尊厳や権利が大きく損なわれた国際的な人権問題だ。琉球人に対する冒涜(ぼうとく)行為への謝罪を強く要求する。研究会は琉球人・アイヌ遺骨返還に見る日本の植民地主義に強く抗議するとともに、同遺骨に関する完全な情報の公開、そして遺骨返還・再埋葬を要求する」(1月28日付「琉球新報」)―。

 

 地元で目にする、佐藤や新渡戸に関する“偉人伝説”の中には植民学に関わった過去の記述はほとんど見当たらない。私たちはもうそろそろ、足元の歴史を直視しなければならない時期を迎えているのかもしれない。

 

 

(写真は墳墓の地に向かう葬列。アイヌプリで行われた=2017年7月、映像画面から)

 

 

《追記》〜食で先人知ろう 仙北小で新渡戸稲造ゆかりの給食

 

 盛岡市出身で国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(1862〜1933)が好んで食べた料理を再現した給食が7日、同市の仙北小で全校児童約750人にふるまわれた。再現したのは、同市内丸にあったレストラン「公会堂多賀」で新渡戸がよく注文していたフランス料理。会食で必ず最初に出てきたというブイヤベースや、新渡戸が好んだマッシュルームのクリーム煮などを市学校栄養士会が洋食風にアレンジした。6年の北田寛人君(12)は「稲造さんも食べていたと思うとロマンを感じる」と話した(2月8日付「朝日新聞」岩手版)

 

 


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