再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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再論「記憶と忘却と」…イシグロ文学の世界


 「記憶とは何か、そして忘却とは?」―。今年は一年中、こんなことを繰り返し考えてきたような気がする。第1の敗戦(第2次世界大戦)から第2の敗戦(東日本大震災)を経たいま、私たちは何を「記憶」し、何を「忘却」してしまったのだろうか。ポスト・トゥル−ス(脱真実)、オルタナティブ・ファクト(もうひとつの事実)、フェイクニュ−ス(ウソ情報)…。詐欺師の口上よろしく、記憶がねつ造・改ざんされたことはなかったか。「あったこと」が「なかったこと」にされ、「なかったこと」が「あったこと」にされるという歴史(記憶)への冒涜(ぼうとく)はなかったか―。この問いに一条の道筋を与えてくれたのが、イシグロ文学の世界だったように思う。

 

 「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな』―とわたしは下の景色のほうを手で指した―『あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』」―。今年、ノ−ベル文学賞を受賞した英国在住の作家、カズオ・イシグロさん(62)のデビュ−作『遠い山なみの光』(1982年)の中にこんな一節がある。イシグロさんは長崎市で生まれ、5歳の時に海洋学者だった父に連れられ、一家で英国に移住した。日本語は片言しか話せない。だから、作者の心象に宿る「日本の記憶」はまず英語で書かれ、これが翻訳者によって日本語に訳されるという手順をたどっている。イシグロさんはこの作品について、こう語っている。

 

 「私にとっての日本は子ども時代の記憶による想像の国だった。だから、心の中の美しい思い出を、日本に来ることで壊されて自分自身が“ホ−ムレス”になってしまうことを恐れていたのかもしれない」(1989年の来日時会見)―。面白い表白である。ホ−ムレス…つまりディアスポラ(故郷喪失者)に転落する寸前にすくい取られた記憶の源流とでも言おうか―イシグロ作品が「記憶文学」と言われるゆえんでもある。

 

 英国で最も権威のあるブッカ−賞を受賞した『日の名残り』(1989年)は執事の目を通して見た大英帝国の記憶の物語である。栄光に包まれた貴族社会の没落を描くためには、微に入り細をうがった「記憶の再現」が必要だったのであろう。執事が仕える貴族が一時期、ヒトラ−と宥和(ゆうわ)関係にあることを知ってしまう。外部にもれれば、国際問題に発展するのは目に見えている。執事はその門外不出の秘密をそっと、記憶の引き出しの奥にしまい込む。執事として生きる、それが誇り高き矜持(きょうじ)であり、最低限の「品格」だったのである。貴族の元を去る時がやがて訪れる。ひとすじの涙が頬を伝う描写が出てくる。執事の人間としての”素顔”が垣間見えた瞬間である。それにしても、映画化もされたこの作品の作者が日本人であることに今更ながら驚かされてしまう。

 

 「私はしばしば、忘れることと覚えていることのはざまで葛藤する個人を書いてきた」とイシグロさんは受賞記念講演で述べている。最新作『忘れられた巨人』(2017年)の原題は「The Buried Giant」…つまり「葬られた巨人」という意味である。国家や共同体の記憶はどうあるべきかという問い返しでもある。生物学者の福岡伸一さんはこんな読み解きをしている。「彼は新しい角度から『記憶』の問題に挑んだのだ。個人の記憶ではなく、共同幻想としての集合的な記憶。…埋もれているのは社会的な記憶だ。私たちはそれを掘り返すべきなのか。掘り起こした巨人をどのように背負うべきなのか。忘れたいけれど、忘れてはならない記憶」(2017年10月15日付「朝日新聞」)

 

 イシグロさんは日本の戦争責任について、あるインタビュ−で口ごもりながらこう語っていた。「ある国が平和と安定のため、無理やりに過去を忘れなければならない場合があるかもしれない。たとえば、ナチスドイツのように。しかし、この国(日本)は余りにも多くのことを忘れてしまったのではないか。被害者に対する贖罪(しょくざい)といったようなことを含めた総量としても圧倒的な忘却。ある意味、これは『不正義』と同義ではないか」

 

 唐突に「君の名は」という言葉が脳裏によみがえった。大ヒットした、あの長編アニメ(新海誠監督)ではない。1952年から2年間、NHKラジオで放送された、菊田一夫脚本のラジオドラマである。映画やテレビドラマ、舞台などで上演された空前のメロドラマだった。主人公の「真知子」が首に巻くマフラ−が人気になり、そのファッションがブ−ムになった。放送時間には銭湯の女湯が空っぽになった。「忘却とは忘れ去ることなり」というセリフと同時にこのドラマは幕を開ける。この名セリフを私はいまも覚えている。セリフには続きがある。「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」―。真知子と春樹は互いに愛し合いながら、すれ違ってなかなか会えない。忘れてしまったらどんなに心が軽くなるだろう。だけど忘れられない…。

 

 「記憶」と「忘却」とは―。言ってしまえば、真知子と春樹のような関係ではないのか、とふと思ってしまう。記憶を完全に忘却の彼方に葬り去ってしまうことに対する、ある種の逡巡(しゅんじゅん)…。「記憶は忘却に抗(あらが)い、忘却は記憶を誘(いざな)う」―。その歩みがたとえ牛のごとくであったとしても、その間を行きつ戻りつする「往還」こそが、人間としての最低限の良心とか正義なのかもしれない。いや、国家(共同体)にとっても…。

 

 今年のノ−ベル平和賞には国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペ−ン」(ICAN=アイキャン)が選ばれた。広島で被爆したカナダ在住のサ−ロ−節子さん(85)が受賞の喜びをこう語った。「私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう」。イシグロさんは「ICAN」の受賞に最大限の賛辞を表し、こう述べた。「分断が危険なまでに深まる時代において、私たちは耳を澄まさなければならない。まるで埋葬された怪物が目を覚ましつつあるように、文明化された通りの下でうごめいている」(12月9日付「朝日新聞」)―。

 

 原爆に対して「加害」と「被害」という二重の記憶を抱え持つ二人にとって、「The Buried Giant」とはまさに「核の脅威」そのものに違いない。分断された世界の中で、「核」という名の「忘れられた巨人」がいままさに長い眠りからむっくりと起き上がり、悪魔の一歩を踏み出そうとしているのではないか。チャップリンがそうであったように、「核」問題とはすぐれて文学上の命題である。私たちはいま、政治の想像力がそれについていけないというジレンマの世界に生きているのかもしれない。まるで「忘却」が「記憶」を駆逐してしまったかのように…。その喜劇王はクリスマスの今日12月25日が没後40年―。

 

 

 

(写真はノ−ベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさん=インタ−ネット上の公開の写真から)

 

 

《追記−1》

 年末年始のしばらくの間、当ブログを休ませていただきます。良いお年をお迎えください。なお、「記憶と忘却と…」の初出は11月1日付の当ブログを参照。また関連として、12月12日付ブログ「チャップリンと核」、同月18日付ブログ「3・11−その時 そして…山根さん夫妻」並びに同20日付ブログ「『君たちはどう生きるか』、そして『狭き門』…」を合わせて読んでいただければ、このテーマにかかわる私の関心の所在がご理解いただけるのではないかと思います。

 

《追記ー2》

 11月8日付当ブログ「Ora Orade Shitori egumo」で言及した、物理学者で宮沢賢治研究者の斎藤文一さんが今年10月20日に病気で亡くなっていたことが分かった。享年92歳。北上市出身で、新潟大学名誉教授。宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長。長女は文芸評論家の斎藤美奈子さん。

 

《追記ー3》

 長崎で被爆、「赤い背中の少年」の写真で知られた谷口稜曄(すみてる)さんが8月3日に死去。享年88歳。「私はモルモットではない。忘却が原爆肯定へと流れることを恐れる」と訴え、核廃絶運動の象徴的存在だった(12月26日付「岩手日報」追想メモリアル)

 

《追記ー4》〜沖縄の記憶から

 2017年の沖縄は基地被害で明け、基地被害で暮れたと多くの県民は思っているはずだ。それほど訓練、飛行の強行、事件、事故が繰り返し起きた1年だった。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設は4月、政府が護岸工事に着手した。12月にはN5護岸が長さ273メートルに達し、ほぼ完成した。新たにK4護岸建設の砕石投下も始まった。

 現場の環境破壊が著しい。7月に絶滅の恐れのある希少サンゴ14群体が見つかったが、沖縄防衛局の県への報告では13群体が死滅した。琉球新報社が9月に実施した世論調査では80・2%が県内移設に反対だった。「辺野古ノー」の圧倒的多数の民意を踏みにじり、環境を破壊しながら建設を強行することなど許されるはずがない。訓練強行も目に余るものがあった。嘉手納基地と津堅島訓練場水域では、米軍のパラシュート降下訓練が地元の反対を押し切って繰り返された。この訓練は以前、読谷補助飛行場で実施されていた。1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、伊江島に移転することで合意したはずだ。しかし米軍は勝手に訓練場所を拡大している。やりたい放題ではないか。

 昨年12月に名護市安部沿岸に墜落した普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイは、今年も事故や緊急着陸などを繰り返した。8月には普天間所属機がオーストラリア沖で墜落し乗員3人が死亡した。緊急着陸は6月に伊江島補助飛行場と奄美空港、8月に大分空港と相次いだ。欠陥機としか言いようがない。しかしオスプレイはすぐに飛行を再開し、現在も沖縄上空を飛び続けている。危険なのはオスプレイだけではない。普天間所属のCH53E大型ヘリの事故も相次いだ。10月、東村高江の牧草地に不時着し、炎上大破した。米軍は一方的に事故機を解体し、周辺の土壌と共に現場から持ち去った。航空危険行為等処罰違反容疑の捜査対象の当事者が公衆の面前で堂々と証拠隠滅を図った。これで法治国家といえるのか。

 CH53は12月に入って、上空から次々と部品を落下させた。宜野湾市の緑ヶ丘保育園の屋根にプラスチック製の筒が落ち、普天間第二小学校の運動場に窓を落下させた。いずれも近くに園児と児童がいた。大切な子どもたちの命が重大な危険にさらされた。ところが政府は事故を引き合いに、辺野古移設の加速化を繰り返し主張している。萩生田光一幹事長代行は「だからこそ早く移設しなければいけないという問題も一つあると思う」と明言した。言語道断だ。危険除去を主張するなら、普天間飛行場の即時閉鎖しかない。辺野古移設を正当化するため、住民を危険にさらした事故を利用するのはもってのほかだ。住民保護を放棄した政府に「国難突破」を言う資格などない(2017年12月31日付「琉球新報」社説から

 
 

 

 

 

 


2017.12.24:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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