夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その3)〜喜劇の天才と喜劇王(和製チャプリン):はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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宮沢賢治の詩「風林」(大正12年6月3日)の中に「あの青ざめた喜劇の天才『植物医師』の一役者」という一節がある。教え子たちと岩手山の夜間登山に挑戦した時の詩編で、ここに登場する「喜劇の天才」は私の親戚筋に当たる長坂俊雄(故人)である。寒さの中で「凍(こご)えるな」と教え子たちを励ます一方、一年前に病死した妹トシを悼む賢治の声が交錯する哀惜切々たる一篇である。
27年前の賢治生誕100年の際、私は恩師・賢治との交流を記録に残そうとロングインタビュ−を試みた。当時、俊雄爺は88歳だったが、その語り口はまさに“喜劇役者”そのものだった。賢治が教鞭を取っていた花巻農学校(当時は稗貫農学校、“桑っこ大学”)に中途入学したのは大正11(1922)年。その天性ともいえる“茶目っ気”に注目した賢治は戯曲4部作のひとつ「植物医師」の主役に抜擢した。インチキ医者があの手この手で無知な農民をだますという「郷土喜劇」だったが、台本にはない即席(アドリブ)を演じるなどして喝采を浴びた。当時の賢治の惚れっぷりを示すエピソードが録音記録に残っている。
「卒業した時、先生に『(坪内(逍遥)さんに紹介状を書いてやるから、役者にならんか』と言われてね。わしもその気になって、おやじに相談したら、『バカヤロ−。これでもわが家は武士の流れをくむ家柄だ。河原乞食みたいなことは許さん』と一喝された。家出しようにもどこを捜しても、家の中には一銭のゼニもなかった。一か月二円五十銭の授業料も滞納する始末で、先生の童話の原稿を一枚五銭で清書させてもらったり…」
「植物医師」のほか、「饑餓陣営」「種山ヶ原の夜」「ポランの広場」の4部作が2月18〜19日の両日、花巻市民劇場の公演としてお披露目された。100年以上の時空を隔てて主役を演じる現代のインチキ医者の姿が「喜劇の天才」・俊雄爺に重なった。ふいに、この天才役者を育てた賢治こそが「喜劇王」の和製「チャプリン」ではないかという想念が駆けめぐった。以下に喜劇の天才と喜劇王のダイアロ−グ(対話)のいくつかを当時の録音記録から再現する。「イ−ハト−ブ図書館」の中にこんな寸劇や映画、アニメ、朗読などをいつでも気軽に催すことができる「ミニシアタ−」ができたらなぁ…
※
●それでも学校は楽しかったな。わしの茶目も相当のもんだけど、先生はその上前をはねるんだよ。こんなことがあったな。養蚕当番で寄宿舎に泊ることになっていたある晩、先生が「これから肝試(きもだめ)しをするから、林の中の墓石にチョ−クで丸印をつけてこい」と。林に入っていくと遠くの方で、ピカッピカッと何かが光っている。「人魂(ひとだま)だ」と大声を上げてしまった。後ろの方から来た奴が今度は「幽霊が出たと」と叫ぶもんだから、見上げると杉の木のてっぺんで白いものがゆ−らゆら。もう一目散に逃げ帰った。すると、先生は「情けないやつらだ。今日は全員不合格。明朝、やり直しだ」と、こうきたわけだ。
●今度は養蚕室の二階の屋根から下の畑に飛び下りろ、と言うんだな。畑の土は柔らかいから、これは簡単。「今日は全員が合格だ」と先生はニコニコ笑っているわけよ。それにしても、クリスマスなんていうものがまだ盛んでなかったあの当時に、先生はどこでピカピカ点滅する豆電球を手に入れたもんなのかねえ。「幽霊」の正体は化学実験の時に着る白衣。前の日にでも杉の木に登って吊るしておいたんだろうけど、とにかく奇態な先生にはちがいなかったな。
●いつかこの借りを返そうと、寄宿舎のフトンのノミを手分けして集め、当直の日に先生の寝床に放してやった。ピヨン、ピヨンとはねまわるノミをつかまえるのが、これまた大変なんだ。マッチ箱にいっぱいだから、何十匹もだぞ。翌朝、先生はすました顔で「夕べはノミが多くてなかなか、寝つけなかったけど、諸君はどうだったかね」とこれっきりだ。
●今度こそは、とヘビを放したこともあったな。学校へ行く途中に一匹捕まえて、素知らぬ顔で放したら、教壇の方に這っていった。うまくいったなと思っていると、先生はそれをひょいとつかまえて、「あ、青大将だな。これは野ネズミなどを退治してくれる大切なヘビなんだよ」と得々と“ヘビの効用”について演説する、とまあ、こんな調子だったからね。あの先生にはやられっ放しだったなあ。
●ある時、授業が始まる前に何人かの生徒を指さし、「君たちは夕べもやったな。回復するまでには、相当の時間を要するんだぞ」と。今でいうマスタ−ベイション、自慰のことを先生は話したんだ、と後で分かった。わしは奥手だったから、その時は何のことかチンプンカンプンだった。宗教や病気など、結婚を断念せざるを得ない理由はいろいろあったと思う。だからこそ、先生は悩んだのではないか。凡人から見れば常軌を逸したようにみえる(先生の)振舞いも、持て余したエネルギ−を発散させるためだった、とわしには思えるんだな。
(写真はだまされた農民たちから抗議を受けるインチキ医者。農民たちは最後にはこの医者を許すことによって、“和解”が成立する=2月19午後、花巻市文化会館で)
《追記ー1》〜東北農民管弦楽団を主宰する白取克之さん(53)
考えられない。宮沢賢治なしの人生なんて。小学生のときに童話を読んで、とりこになった。中学生で「セロ弾きのゴーシュ」にあこがれてチェロを始め、賢治が教え子に「百姓になれ」と諭したと知り、農家になろうと決めた。大学の農学部を卒業後、研修で訪れた北海道の牧場主がバイオリンを弾いていた。農家の楽団で演奏しているという。「なんと豊かなことか」。農民に芸術の必要性を説いた、賢治の姿が浮かんだ。
青森で教員になったが、農薬や化学肥料を使わない農業への思いを捨てきれず退職。33歳のとき、弘前市の岩木山のふもとを開墾し農場を開いた。夏の草刈りにも負けず、10年かけて収穫を安定させたころ、夢を思い出した。「東北に農民オ−ケストラをつくろう」。2013年、東北農民管弦楽団を設立した。拠点は賢治の生誕地の岩手県花巻市。農閑期の11月に練習を始め、2月に演奏会を開く。「田園」「新世界」など、賢治ゆかりの音楽に徹する。
15人だった団員は、この10年で約70人に増えた。農業に関わる人たちだけで奏でる響きは「土のにおいがする」とたたえられる。演奏会は東北6県を一巡。7回目の今年は、26日に花巻で「第九」を披露する。「賢治も喜んでいると思います」。客席のどこかで聴いていると信じている(2月22日付「朝日新聞」ひと欄)
《追記―2》〜「むのたけじ賞」が決定
反戦を訴え続けたジャ−ナリスト、故むのたけじさんの精神を受け継ぐ「むのたけじ地域・民衆ジャ−ナリズム賞」の第5回受賞作品が22日発表され、在日外国人らへの差別を取り上げたドキュメンタリ−映画「ワタシタチハニンゲンダ!」が大賞に選ばれた。
映画監督の高賛侑(コウチャニュウ)さん(75)=大阪府=の作品。戦前の植民地政策や戦後の在日朝鮮人の扱いを描き、入管収容施設で迫害された被害者へインタビューし、現代まで続く問題点を浮き彫りにした点が評価された。高さんは埼玉県内で開かれた記者会見で「外国人全体にひどい差別をしている日本の制度をなくしたい。海外でも上映を広げていく」と語った(2月22日付「東京新聞」)
<注>〜むのさんは新聞の戦争責任を取り、敗戦の日の1945年8月15日に勤め先の朝日新聞社を退社。郷里の秋田県横手市で個人新聞「たいまつ」を発刊しながら、反戦・平和のメッセ−ジを発信し続けた。2012年、第22回「宮沢賢治賞・イ−ハト−ブ賞」を受賞。2016年8月、101歳で亡くなった。