夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その10完)〜等身大の「賢治」と賢治「神話」のはざまにて〜あぁ、無情のフラワ−ロ−ルちゃん:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
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夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その10完)〜等身大の「賢治」と賢治「神話」のはざまにて〜あぁ、無情のフラワ−ロ−ルちゃん
2023.04.30:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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「それはやっぱり、コロナやウクライナの影響っていうのはあったと思います。そのなかで家族の大切さみたいなものを見直したいっていう思いが、この原作と宮沢賢治の文学からもう一度考えさせられました」―。賢治没後90年を記念して製作された映画「銀河鉄道の父」(門井慶喜原作)が5月5日に全国公開されるが、成島出監督はその動機を冒頭のように語っている。ふるさとの当地では関連施設の周遊スタンプラリ−や映画に使用された衣装や小道具の展示などブ−ムにあやかろうとあの手この手の“お祭り騒ぎ”の様相を呈しているが…
生誕100年(1996年)の27年前、あの“賢治狂騒曲”を目の当たりにした私としてはやはり、「時代に利用されやすい」という賢治の“危うさ”を思い起こしてしまう。代表的な詩「雨ニモマケズ」が先の大戦で戦意高揚に利用されたかと思えば、戦後は逆に耐乏生活のスロ−ガンとして叫ばれ、そして今度はコロナ禍で失われた“家族愛”のあるべき姿としての「宮澤家」が装いを新にして、再登場しつつある。かつて、高名な賢治研究者の間で「雨ニモマケズ」論争があった。賢治に対する評価が真っ向から対立したエピソ−ドとして今に語り継がれている。
「宮沢賢治のあらゆる著作の中で、最も取るに足らぬ作品の一つであろう」(『宮沢賢治』、1955年)―。詩人で弁護士でもあった中村稔さん(96)がこう喝破したのに対し、詩人谷川俊太郎の父親で著名な哲学者だった徹三(故人)はこう反論した。「その精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らない」(『宮澤賢治の世界』、1963年)。私の手元に『私の賢治散歩』と題する分厚い本がある。著者はこの作品で第17回宮沢賢治賞(2007年)を受賞した菊池忠二さん(故人)。石鳥谷町出身の菊池さんのこの本のお供をしていると、いまにもひょいと賢治が飛び出してきそうな気配を感じる。「二つの疑問」という文章(要旨)がある。
「私のような凡俗の人間にも、起死回生のきっかけをもたらしてくれた『雨ニモマケズ』は中村説のような『取るに足らない作品』ではなくして、やはり優れた芸術作品が持つある種の心の浄化作用ではなかったのか。一方、比類なき『精神の高さ』を称揚する谷川説に私のごときが果たして感応することができたのかどうか。決着のつかない問題としてくすぶっているが、そのことが逆に私の賢治に対する興味と関心の原点になっていることも事実である」
『本統の賢治と本当の露』というタイトルの本の帯には「本当の賢治を私たちの手に取り戻したい」と書かれている。当市在住の著者、鈴木守さんは賢治の”聖者伝説”の虚構に向き合い続けてきた稀有(けう)な人である。そのブログ「みちのくの山野草」にこんな記述がある。「賢治さんが生前、血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露さんです。ところがどういうわけか〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布しているというのが実態です。そこでこのことについて、主に『仮説検証型研究』という手法に依って再検証をしてみましたところ、それは単なる虚構であり、〈高瀬露は悪女とは言えない〉がその『真実』だということを検証できました」―
菊池さんにしろ鈴木さんにしろ、創られた賢治“神話”に抗(あらが)い、等身大の賢治像を追求するその姿勢に私自身、大いに共感する。10回にわたって書き続けてきた「夢の図書館」シリ−ズはとりあえず、今回をもって終わりとしたい。実現を目指したい「宮沢賢治ライブラリ−」を決して、賢治の単なる“聖地”に祭り上げてはならない。こんな思いを込めて…
最後にもうひとつ―3月下旬、NHKBSスペシャルで「業の花びら―宮沢賢治 父と子の秘史」というタイトルの番組が放映された。これまでタブ−視されてきた賢治にまつわる「同性愛」を取り上げて注目された。しかし、その「真実」は本人以外に誰にもわらないはずである。後世に名を残したまま夭折(ようせつ)した者の宿命と言えば、そうであろう。にもかかわらず、公共放送が企画したという背景にあるのは「LGBT」(性的少数者)の権利拡大という時流に乗り遅れまいとする、「宮澤家」もそれを承認した新手の”神話づくり”とは言えないだろうか。
(写真は在野の研究者の2冊の力作。この地道な探求がない限り、賢治はいつの時代でも都合の良いように利用されかねない)
《追記ー1》〜文中の鈴木守さんから、賢治の“同性愛”説についての独自の見解が寄せられた。私自身、その考えに同調する観点から、以下にその内容を記したブログ「みちのくの山野草」をご紹介する。
Eテレ「宮沢賢治〜慟哭の愛と祈り」、はたして如何なものか - みちのくの山野草 (goo.ne.jp)
《追記―2》〜いい加減にせんか!?
「フラワ−ロ−ルちゃん(地域キャラクタ−)缶バッチについては、市の職員の手作りということでございまして、数をどれだけ作ることができるか、600個は用意いたしますけれども、それ以上のご希望がある方に対して、どれだけ対応するかということについては、できるだけ対応していきたいなというふうに思っております」(4月定例記者会見における上田東一市長の発言)―
正直、ぶっ飛んでしまった。賢治没後90周年のお祭り騒ぎについては当ブログでも苦言を呈したが、今度はタイアップキャンペーンのプレゼント用の缶バッチを職員たちが手づくりしているという「ハッ」。まさか勤務中の作業ではあるまいが、おもちゃ屋のアルバイト料のために税金を納めているんじゃないぞ。図書館とか橋上化とか職員が叡智を集めなきゃならない案件が山積する中、いい加減に目を覚まさんか。「この親にして、この子あり」….。官民を挙げた賢治の新たな”聖者伝説”が生み出されつつある。
《追記ー3》〜ブログ休載のお知らせ
既存ブログの整理のため、新規掲載はしばらくの間、休ませていただきます。