一身にして二生を経るが如し:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
一身にして二生を経るが如し


 

 上掲の写真は58年前の1960年6月18日の国会周辺の光景である。「安保改定」反対―「岸内閣」打倒を叫んで参集した学生や労働者、市民の数はピーク時には50万人に達した。その中に闘争を主導したブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎(しましげお)がいた。時計の針が午前零時を回ったその瞬間、日米安保条約の改定(新安保条約)は自然成立した。3日前には東大生の樺美智子さん(当時22歳)が機動隊とのもみ合いの中で圧死した。島が全学連委員長にスカウトした、北海道大学出身の唐牛健太郎(1937〜1984年)はこの日は獄中にあった。「組織を賭(か)けて闘った安保闘争は、この夜の闘いとともに敗北し終熄(しゅうそく)する。私のブントそのものの敗北でもあった」(『ブント私史』)と島は書いた。その群衆の片隅に私もいた。

 

 最新刊『評伝 島成郎』(以下「評伝」)の筆者であるフリ−ジャ−ナリスト、佐藤幹夫さんは福沢諭吉の『文明論之概略』の一節…「一身にして二生を経るが如し」という書き出しで始めている。「二生」のひとつは政治活動家としての島であり、もうひとつは「ブントから沖縄へ/心病む人びとのなかへ」という副題が示すように精神科医としての島である。島や唐牛と同志的な関係を持ち、今年1月に自らの命を絶った評論家の西部邁(にしべすすむ)については1月29日付当ブログ(「ある保守論客の自裁死」)で触れた。唐牛の破天荒な人生など「60年安保」群像は『唐牛伝―敗者の戦後漂流』(佐野眞一著)に詳しい。佐藤さんは冒頭である事件を取り上げている。

 

 1968年5月8日、厚生省(当時)から派遣された島は那覇空港に到着した飛行機の中で足止めを食っていた。安保闘争を指揮したリ−ダ−に米軍側がビザを発給しなかったからである。この措置はすぐに解除され、以後、島の沖縄での医療活動は中断を挟(はさ)んで約25年に及んだ。日本共産党に反旗を翻(ひるがえ)した島ら学生運動家を中心に結成された新左翼「ブント」はわずか1年半余りで解散に追い込まれた。敗北宣言の後、島はこう語っていたという。「俺達はやっぱり沖縄に対して責任があると思う。サンフランシスコ講和条約で本土は沖縄を切り捨てたんだよ。60年の時、それをもっと尖鋭(せんえい)にやるべきだった」(「評伝」)―。新安保条約とセットで結ばれた「日米地位協定」が現在に至るまでの米軍基地の固定化につながったことを島は自覚していた。

 

 「母屋に接した6畳程のブロック造りの監置所にいれられ、外部との交通は1日2回の食事の差し入れ口である20センチメ−トル四方の小穴だけで、暗闇の中、糞便にまみれた生活を強いられている中年の女子患者を診た。離島で、これまた数年来、鎖で足を縛られたまま奥の一室に監禁されている侏儒(しゅじゅ=身体の小さいこと)の重度精神薄弱の患者さんもいる。或いは十年来、無動のまま放置され、両膝関節硬直を起こして歩行できないで、近所の人に負われ病院に連れてこられた患者さんもいた」(「評伝」)―。東大医学部に復学し、もうひとつの人生を踏み出した島はいきなり、こんな現実を突き付けられた。沖縄戦の傷跡の深さと復帰後も米軍の支配下に置かれた沖縄最前線の景色が影絵のように目の前に広がった。

 

 島は大酒のみで豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。『唐牛伝』の中にはこんなエピソ−ドが紹介されている。「はい、お酒は大好きでした。診療が終わると、看護人、看護師らと肩を組んで宜野湾市に隣接する普天間の飲み屋街を練り歩いていました。島先生は飲むとすぐ靴を脱ぎ、靴下を脱ぐんです。そして裸足でバ−の床を歩き回る。やっぱり、人間を縛るものは靴も靴下も全部嫌いだったんじゃないですかね」。私も何度か普天間界隈に足を運んだことがある。市の中心部を米軍普天間飛行場が占拠し、その周りにへばりつくように飲食店が密集している。この現実を日々、目の当たりにしていたはずの島はまるで”封印”するかのように安保闘争や基地問題を口にすることはなかったという。ある種の贖罪感(しょくざいかん)がそうさせたのかもしれない。

 

 佐藤さんは「島の本領が何かといえば、『人と出会い、つなぐ力の強さ』である」と書き、こう続けている。「島は、精神の病理は人と人との関係における葛藤や苦しみに始まりを持つ、という病理感をもち、従って治療の場は病院ではなく、人が生きる場所、つまり地域こそが最良である治療観を、終生手放さなかった医師である」―。島が提唱した「治療共同体」構想である。「ヴ・ナロ−ド」(人民の中へ)…島の沖縄への道行きを佐藤さんは古典的な表現でこう呼んでいる。考えてみれば、島の「二生」とはブントを立ち上げた時から沖縄の苦悩の最前線に身を置いた時に至るまで「ヴ・ナロード」だったことに心づく。

 

 沖縄本島北部の瀬底島(せそこじま=国頭郡本部町)に終(つい)の住まいを定めた島は2000年10月17日午前7時30分、旅立った。まだ、69歳の若さだった。ノンフィクション作家の佐野さんは島や唐牛、西部など、さながら万華鏡みたいな「60年安保」群像を評して、こう述べている。「ブント全学連の幹部たちは、闘争終了後も、『大衆社会』に埋没することなく、己の信ずる道を進んだ。60年安保後、日本は驚異的な経済発展を遂げた。だが、なぜか不安感ばかりが募って自足できず、すべてがあっという間に消費される社会になった。『異論』はきれいに排除され、ポピュリズムと反知性主義という暴風が吹き荒れるなか、みな同じ方に向かせようとする不気味な世界になったという意味である」(『唐牛伝』)

 

 瀬底島と背中を接するようにして米軍普天間飛行場の移転先とされる名護市辺野古の新基地建設現場がある。安保闘争時の岸信介首相がその基礎(安保改定と日米地位協定)を築き、孫の安倍晋三首相が総仕上げ(安保法制と憲法改正)を強行する現場がここにある。島はかつて、こう喝破した。「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」―。島の眼(まなこ)は亡きあともその現場をにらみつけ、私の心の中のブントは今もまだ生き続けている。

 

 

(写真は「安保粉砕」を叫んで国会を包囲する人の群れ。戦後最大の示威行動といわれる=インタ−ネット上に公開の写真から)

 


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