「わら細工」の記憶:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ
「わら細工」の記憶


 

 「最近、随分といら立っているなぁ」と我ながら思う。何にか!?「ソンタク」とやらが闊歩(かっぽ)する世情に対してということはわかる。でも、「世の中って、こんなもんさ」とスマホやSNSなどに熱中する光景を目の当たりにすると、イライラはついそっちに向かってしまう。と一方で、「もう年なんだからさ。怒りの矛先を収めてさぁ…」ともうひとりの自分が耳元でささやいているのに気がつく。今度はそんな分身の体たらくにイラっとしてしまう。あ〜ぁとため息をついていたそんな折…。『わら細工とその周辺』というタイトルをつけた冊子が送られてきた。筆者は高校、大学と一緒の阿部茂巳さん(79)。県内の高校で社会科を教えるかたわら、30年間の日曜百姓の集大成がこれである。

 

 足半(あしなか)、草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)、爪子(つまご)、嬰児籠(えじこ)…。自家製のわら細工の数々が写真に収められている。「記憶の源泉」―何か大切な落とし物を見つけたような、そんな気持ち…。あれは、小学校に上がって最初の学芸会の時だったか。いきさつは忘れたが、仮装行列で物乞い、つまり「乞食」に扮することに。「ホイト(いまでは明らかな差別語だが、あの時、祖母は確かにそう言った)は草鞋をはいていたはずじゃった」とどこからか擦り切れたのを調達してきた。頭陀袋(ずだぶくろ)をぶら下げた童顔の乞食が来賓席に侵入するや、大人たちはキャ−ッと叫んで後ずさりしたっけ。「上出来じゃったぞ」と祖母…。こんな光景が湧き出る泉のように目の前に広がった。

 

 「農夫の息子よ/あなたがそれを望まないなら/先祖伝来の藁(わら)仕事なんか/けとばすがいい…」(「最上川岸」)―。因習の打破と個人の尊厳をうたい上げた、茨木のり子の詩を冒頭に掲げ、阿部さんは「50年前なら共感できたが…」と困惑の体(てい)である。「わらはコメの親」と言われる。逆もまた真なりだが、後継者不足や大型機械化の影響をもろに受け、“親子”ともども風前の瀬戸際に立たされている。「わら文化」の復権を願って、黙々とわら打ちをしていた父親に弟子入りした。花巻市と合併する前の旧東和町で百姓一本で生きてきた「テドシャ」(手達者=てだっしゃ)として知られた。とくに、嬰児籠づくりが得意だった。がんで余命半年を告げられた時、あわててビデオ一式を担ぎ、父親の指先に目を凝らした。

 

 「わら細工師」の免許皆伝に至るまでのイバラの道は本書に譲るとし、足半から草履・草鞋へと進化する履(は)き物の歴史に興味が惹かれた。足半は元々、川で鵜飼(うか)いをする際の滑り止めだった。その後、全国に普及したが、鼻緒の結び目が牛の角に似ていることから、岩手・宮古地方では「ベゴジョーリ」とも呼ばれた。足の半分しかないので、踵(かかと)に土がついてしまう。この欠点を補ったのが草履で、長旅に耐えるように踵を固定したのが草鞋である。こんな阿部説に引き込まれるようにして、遠い記憶が輪郭を描き出していった。

 

 15の春は今から63年前。いまの少子化とはまるで逆で、1クラス50人以上のクラスが全部で八つの大所帯だった。卒業アルバムの足元を注視してみると、ほぼ全員が下駄ばきである。丸眼鏡の私は高下駄をはいてすましている。そういえば、鼻緒が切れた時は蕗(ふき)の皮で応急処置をしたっけ。校内のクラブ活動のスナップ写真では短靴に交じって、半分ぐらいが草履をはいていた。ブラスバンド部でトランペットを吹いていた「タカオ」君は太い鼻緒の草履をつっかけて練習に余念がない。下駄を鳴らしながら登校し、校舎にはペタペタと草履のリズミカルな音がこだました。わが同期のわら細工師は期せずして、こんな時代の息づかいを思い出させてくれた。いま、下駄ばき姿は祭で山車を引く稚児行列に見る程度である。

 

 「母は嬰児籠の赤子の上に身を伏せて、念仏を称(とな)えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに駆けつけたのでやっと人心地がついたのだという」(『兄のトランク』)―.宮沢賢治が生まれた5日後の明治29(1896)年8月31日、岩手・秋田県境を震源とする「陸羽大地震」が発生、犠牲者は209人に及んだ。その時の様子を弟の清六さん(故人)は冒頭のように記している。その約2ケ月前には明治三陸大津波が発生している。

 

 阿部さんは最後の習作を父親の遺作となった「嬰児籠」に決めていた。里方で生まれた赤ちゃんが帰る時、迎えてきた婿どんにお祝いとして持たせるのが習わしだった。わら細工師たちの腕の見せどころだった。そんな実体験がこう言わせる。「母イチは実家に帰って賢治を生み、産湯をくんだ井戸が現存している。生まれたとはいえ、5日目はまだ母子が一体のようにして布団に寝ているものだろう。…母子で布団に寝ているところへの大地震で、母はとっさに赤子の身を守るため、枕元に置いてあった嬰児籠に入れ、おおいかぶさった。これが実相だろう」。清六さんが聞きまちがえたのかどうか…。いずれ、わら細工師としての説明の方がはるかに合理的である。

 

 「米俵」や「炭俵」が死語になって親しい。「俵(たわら)編みは稲づくりの総仕上げ」と師匠は口癖のように言ったという。「コメはわらの子」…「コメの良しあしは俵の原料や編み方の善悪で決まる。原料のわらを吟味して俵編みをする百姓は当然、良質の稲(コメ)づくりを心がける」―。“農の心”が伝わってきた。わら一本にこんなに豊かな文化の源(みなもと)があったとは…!?あっ,そうだ。嬰児籠と言っても若い人にとってはチンプンカンプンだろう。私の周辺では「エンツコ」と呼ばれ、農繁期など人手が足りない時に使われた。これで育ったことはないが、入って遊んだことはある。ちょっとチクチクしたが、ほんわかと温もりが伝わってきたのをかすかに覚えている。

 

●申し込みは盛岡市高松4−12−43、「わら工房」(阿部さん方)。電話;019−661−6380。定価千円(税込み)

 

 

(写真は阿部さんが創作したわら細工の数々。写真左ページは上から足半、草履、草鞋。『わら細工とその周辺』から)


2018.04.12:Copyright (C) ヒカリノミチ通信|増子義久
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