訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹):はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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訃報―石牟礼道子さん、逝く…「石牟礼さんがもういない」(池澤夏樹)


 水俣病患者の苦しみや祈りを共感をこめて描いた小説「苦海浄土」で知られる作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パ−キンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去した。90歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は長男道生(みちお)さん。

 

 熊本県・天草に生まれ、生後まもなく対岸の同県水俣町(現水俣市)に移住した。短歌で才能を認められ、1958年、詩人谷川雁(がん)氏らと同人誌「サ−クル村」に参加。南九州の庶民の生活史を主題にした作品を同誌などに発表した。68年には「水俣病対策市民会議」の設立に参加。原因企業チッソに対する患者らの闘争を支援した。水俣病患者の心の声に耳をすませてつづった69年の「苦海浄土 わが水俣病」は高い評価を受け、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退した。以降も「苦海浄土」の第3部「天の魚」や「椿(つばき)の海の記」「流民の都」などの作品で、患者の精神的な支えになりながら、近代合理主義では説明しきれない庶民の内面世界に光をあてた。

 

 2002年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演され、翌年以降、熊本市や水俣市でも披露された。晩年はパ−キンソン病と闘いながら、50年来の親交がある編集者で評論家の渡辺京二さんらに支えられ、執筆を続けた。中断したままだった「苦海浄土」第2部の「神々の村」を2004年に完成させ、3部作が完結。11年には作家池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に日本人作家の長編として唯一収録された。

 

 73年、水俣病関係の一連の著作で「アジアのノ−ベル賞」として知られるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」、93年には不知火(しらぬい)の海辺に生きた3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対し、01年度の朝日賞を受賞。03年に詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けた。全17巻の全集(藤原書店)は13年までに刊行(14年に別巻の自伝)。他の著作に「西南役伝説」「アニマの鳥」「陽のかなしみ」「言魂(ことだま)」(故・多田富雄氏との共著)など多数。15年1月から本紙西部本社版で、17年4月から全国版でエッセー「魂の秘境から」を連載中だった。

 

 

 今年1月31日付の「魂の秘境から」―は「明け方の夢」というタイトルで、以下のような文章で閉じられている。

 

●…かつては不知火海の沖に浮かべた舟同士で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かせぬ一員。釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやって来る漁師さんたちに、舟縁越しに手渡していたのだった。

 

 ところが、昭和三十年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂(うわさ)が聞こえてきた。地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(ねこだけ)に登る」と言い習わしてきた。そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。

 

 さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった。

 

 

 追悼:「石牟礼さんがもういない」〜池澤夏樹(作家)

 

 石牟礼さんがもういない。熊本に行っても、託麻台リハビリ病院にもトピア熊本にも石牟礼さんはいない。念のため、以前に暮らしていらしたやまもと内科の四階を覗(のぞ)いても、やはりおられない。あれらの部屋はみな空っぽになってしまった。この十年、何度となく熊本に通った。不知火海を一周して水俣に寄り、遠く高千穂へ走って夜神楽を見、一昨年の地震の惨状も確かめに行った。その他にも何かと理由を作って訪れた。すべて石牟礼さんに会うためだった。

 

 キンソン病でお首が揺れるのだが、いつもいい顔をしておられた。声が美しく、昔の話が次々に湧いて出て、お疲れを案じながらもついつい時間を忘れた。その場にいられることが何よりも嬉(うれ)しかった。何をしても上手な方で、病院の個室で炊飯器一つで煮物を作られる。これが本当においしい。いつも品のいいものを召していらして、どれも手作り。昔の布をつないで不思議な上着を仕立てられる。絵は最後まで描いておられたし、小声で歌われるのを聞いたこともある。この人の前に不細工な無能な男としてただ坐(すわ)っているのが苦しかった。身を持て余す思いがした。こちらからお渡しできるものが何一つなくて頂くばかり。それでも石牟礼さんはぼくが目の前にいることを喜んでおられる。

 

 病状を抑えるために服用している薬の副作用で頻繁に幻覚がやってくる。ここ二、三年はそういうお話が多くなった。去年の十一月に聞いたのは(今から思えば最後になったのだが)、「部屋の隅に街灯のように立つ二人の見知らぬ男」とか、「温泉で衣類を残して消えてしまった入浴客。みなで探すがいない」とか、「(昔の水俣の)とんとん村の海岸にいる。水平線に天草が見える。でも海を隔てる壁がある」というような話。 声が小さくなって口元に耳を寄せるようにして聴き取った。幻覚ではあるが、しかしそのまま石牟礼道子の文学でもある。

 

 そもそもこの人自身が半分まで異界に属していた。それゆえの現世での生きづらさが前半生での文学の軸になった。その先で水俣病の患者たちとの連帯が生まれた。彼らが「近代」によって異域に押し出された者たちだったから。それはことのなりゆきとして理解できる。でも、たぶん石牟礼道子は初めから異界にいた。そこに相互の苦しみを通じて回路が生まれたのだろう。

 

 去年、石牟礼さんは『無常の使い』という本を出された。「五〇年くらい前までわたしの村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった」と序にある。二人組で、正装で、行った先では「今日は水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、今朝方、お果てになりました」と口上を述べる。これは石牟礼さんがこれまでに書かれた追悼文を集めた一冊である。たくさんの人たちと深い魂の行き来があったことを証する名文集である。この時を迎えて読み返しながら、ここでもぼくは引け目を感じる。自分の場合はこんなに深く人々と交わることができなかった。縁を作れなかった。数少ない縁の一つが他ならぬ石牟礼さんとの出会いだった。

 

 数時間前、ぼくのもとに無常の使いが来た。「石牟礼道子さんが、今朝方、お果てになりました」と告げた(2月10日付「朝日新聞」電子版)

 

 

 

 

 

 


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